なぜか今日は日中友好協会

新しい方の部屋のかたずけをしていたら、隣のばあちゃんが1枚の写真を持ってやって来ました。例によって何をいっているのかさっぱりわかりません。それでもあーだこーだと20分くらいかかって、ようやく彼女のいいたいことがわかりました。

写真に写っているばあちゃんの孫が臨県の小学校で働いていて、そこに何年か前に日本人の女性がやって来たそうです。その日本人は、子どもたちに学用品などを配って、その上、学費の面倒を見ている子どもも何人かいるというのです。

日本では、貧困家庭で小学校へ行けない子どもたちのために、里親になって学費を援助するという活動はかなり前から行われていました。特に山西省は埼玉県と友好関係を結んでいるので、埼玉の日中友好協会などは熱心に取り組んでいたようです。ただ近年は、そういった困窮家庭も減り、また昨年からは授業料は免除になったので、この活動も今は行われていないとも聞いています。

で、ばあちゃんのいいたかったのはこの先で、ウチの孫にも援助をしてもらいたいのだが、どうやったらもらえるのだろうか?ということだったのです。そんなことを聞かれても私もわからないし、第一このばあちゃんは私よりずっといい服を着てるし、息子たちはみな離石で所帯を持っているし、ヤオトンの隣に平房も新築して、水なんかも電動式ポンプでぐいぐい汲み上げていて、ちっとも生活に困ってなんかいないのです。

その上に、私がわからないと答えると、じゃああんたが援助してくれないか?といい出すので、私はまったくの個人で来ているのだから、そんなお金はないとはっきりいいましたが、日本人であれば誰でもみんな金持ちだと思っているようで、私はこの間もさんざん迷惑しているのです。日本にもビンボー人はいること、特に最近は派遣労働者が切り捨てられて、住むところすらないんだ、なんてことを理解してもらうのは、無理でしょうねぇ。

もうばあちゃんは追い返して、部屋の片づけを続けたのですが、箪笥の引き出しに敷いてあった古い新聞紙を見つけました。これまた何という偶然なのでしょう。私の目に飛び込んできたのは、「中日青年交流祝賀会」という記事だったのです。それは1984年のもので、国慶節の日に、日本から3000人の青年が中南海を訪れて交流したというものでした。内容的にはお決まりのパターンでおもしろくも何ともないのですが、その中に出てくる人名がなかなか興味深いものだったのです。

1984年というと天安門事件の前で、総書記は胡耀邦日中友好協会会長が宇都宮徳馬となっています。他に、最年少の参加者が、「おしん」の小林綾子。その他の“青年”が、宇津井健の息子、金沢明子中野良子、芹洋子の4名。芹洋子は、首都体育館の1万8千人の青年たちの前で、「四季の歌」を歌ったそうです。

昨日今日と雨は降っていません。夕方こんな不気味な夕焼けになりましたが、明日は晴れるのでしょうか?

(9月12日)