ひとすじの道

おととい大家さんに聞いてみたら、やっぱりこの家は清朝の頃に建てられたものだそうです。賀家湾村はほんとうに何もないビンボー村ですから、昔造りの立派な建造物というのは特にありません。ここも部屋がふたつだけの小さなヤオトンです。でもこんな感じのヤオトンが、見晴らしのいい場所にぽつぽつとあって、清朝時代に、村人たちはいったいどんな暮らしをしていたのだろうかと、想像力をかきたてられます。村の老人たちの質素な暮らしぶりを見ていると、今とあまり変わらなかったのかもしれません。毎日畑に出て粟や豆や芋を作り、雨が降れば集まっておしゃべりを楽しみ、棗の収穫の頃は村が賑わい、人が死ねば弔い、子が産まれれば無事に成長することを願って幾星霜‥‥などとのどかなイメージを膨らませていたら、大家さんが突然;

「これは日本軍が撃った銃の弾痕だよ」といって、門柱の小さな穴を指差しました(左側の門柱の下の方、色が変わっている部分の少し上)。「この道を村人が逃げていくのを見つけて、日本人が向こうの山から撃ったんだ」。

この家の前の道は、裏山の段々畑に通じ、そして隣村の樊家山に抜けます。私は前々から、なつめを連れて行く散歩コースにしていました。最近は作物が茂っていて、なつめがその中で暴れまわるのであまり行かないのですが、冬場はなつめの大運動場になるところです。そして、この界隈には、ほんとうに墓が多いのです。まったくの土饅頭だけのこの地の墓は、年月と共にだんだん小さくなって、やがて大地に還ります。私はこの墓標のない高原の墓が好きで、冬場は寒さに震えながらも、毎日のように墓巡りをしていました。

しかし、いつも通っていた、そしてこれからは毎日踏みしめることになるこの道を、そんなに遠くない昔、村人たちが日本軍の暴虐から逃れるため、取るものも取りあえず、命からがら、逃げたんだと聞かされて、私はやっぱり言葉を失ってしまいました。

この、なんでもないひとすじの道に、いったいどれだけの歴史が刻み込まれているのでしょう。由緒ある建物も記念碑も、まして記録に残されたものは何もないけれど、今も村人たちが日々農作業に行き、戻る、黄土高原のどこにでもあるひとすじの道。

最近の私は、本も1冊出したことだし、なんとなく緊張感が緩んで、自分が老人たちに託されていたことをほんのちょっとではありますが、忘れかけていたのかもしれません。日本軍の銃弾痕の残る家と村人たちが逃げた道を目の前にして、まだまだ休憩するのは早過ぎると、叱咤されたような気分になりました。

(9月11日)