高才銀老人の話(高崖頭)

実は今年に入ってから、出版の準備や体調が悪かったりで、“取材活動”はほとんどしていませんでした。ところでちょうどこの2週間ほど、以前賀家湾小学校の先生をしていたイーハーという青年が戻ってきていたので、天気の合間を縫って、あちこち老人たちの消息を尋ねて廻りました。そして残念ながら予想していた通り、2人の老人が亡くなっていました。1年以上間をおいて村を訪ねると、誰かひとりくらいは亡くなっているというのが、哀しいけれど現実です。私が訪ねて廻っているのは、その村の最も高齢な人たちなのですから、これは自然の成り行きなのです。

8月27日に「高崖頭」という村に行ってきました。この村の高才銀老人にはもう一度聞きたいことがたくさんあったのですが、それはかないませんでした。以下、哀悼の意を込めて、2007年10月に採録したもののダイジェスト版をアップします。

じいちゃん、黄土高原の地下のヤオトンは、特別に夏涼しく冬暖かいし、もう働かなくていいから、もう辛いことは思い出さなくていいから、どうか安らかにお眠りください。

高才銀老人の話

日本人がやって来てからは夜も眠ることができず、布団はベッドの上に梱包して置き、山の上の見張りが火を点けて合図すると布団を背負って逃げた。ときに大部隊が来て人を捉まえ、彼らにあちこち探せと命令した。いうことを聞かなければ殴られた。

一度私の長兄が捉まって磧口に連れて行かれた。日本軍はここに宿営していたが黄河が渡れず、兄は日本人の馬に飼料をやっているスキに逃げてきた。兄は夜逃げて来たが、再び捉まるのを恐れて、数十里を逃げる間ひとことも口をきかなかったという。大部隊が村に入ると人が多くて、周りの山の上はどこも日本人だらけになった。

駐屯地の三交を出発して村にやって来て、一緒に来た民夫(日本軍に徴用された中国人労働者)が長持をひっくり返し、タンスを倒してものを略奪した。盗んだロバや馬の背に、荷物を山のように積み上げた。あるとき一頭のロバにたくさんの荷物を積んでいった帰り道にロバが暗渠で斃れ、積んでいたものも失くしたが、彼らはまたやって来てなにがしかを略奪して去った。当時遊撃隊、民兵が入り乱れていて、日本人も普通の農民と民兵の区別がつかず、けっきょく野でも山でもいたるところ村人を追いかけ回した。

私たちが、壊れたヤオトンの中に隠しておいた10いくつのふろしき包みも持っていった。それから壁を敲いて、音が違うと棒でこじあけて中に隠してあるものを奪った。それから村人が作った食糧の甕の中に大小便をした。いったん捉まったら金を出さなければならなかった。一度三交から来て、十数人の女性を捉まえ、数日間帰らなかった。家人が金を出して連れ戻した。金を出さなければ帰れなかった。

この村では人は殺されていない。みな隠れてしまうので、誰も見つけることはできなかった。夜も部屋に灯りはつけなかった。ただ見張りが知らせると布団を背負って逃げた。歩哨はふつう灯をつけたりドラを鳴らしたりして村人に合図を送った。ときには子供を落としても気がつかないほどだった。なぜなら小さな子供は布団の中に包んで背負ったからだ。あまりに大慌てなので、頭が上を向いているのか下を向いているのかもよくわからなかった。隠れ場所に行ってからようやく気がつく始末だった。

私が18、9歳のとき、中陽で戦いがあった。大部隊が日本軍のトーチカを攻め、部隊を休息させるため、我々遊撃隊に一日一夜見張りをさせた。あのときの戦闘ではたくさんの人が死んだ。我々がいったん撤退して以降、再び汾陽に出動するよう命令が出た。太原、汾陽の戦いでも多くの人が死んだ。日本軍はいい武器や大砲があり、機関銃も多かった。我々はトーチカを爆破し、先鋒隊が町に突入し、城門を開けて後、八路軍の大部隊が入城した。日本兵は捕虜になったり、こっそり逃げたりした。

(2007年10月31日採録/83歳)