薛丑子老人の話(樊家山)

第一回、日本人は西の方からやって来た。あのとき私は8歳で、学校に通っていた。彼らは裏の方の谷から突然やってきた。我々がちょうど日本人と戦う物語を読んでいたときだった。当時村人は、最初は彼らがどこの軍隊かわからなかった。みなカーキ色の軍装を整えていた。隣村の賀家湾に着いてから大砲と機関銃を撃ちだした。これは第一回目に来たときで、村人も逃げなかったし、日本人と出会っても何もされなかった。1938年のことだ。その後三交が占領され、ここにもしょっちゅうやってくるようになった。我々も民兵を組織し、日本人も殺人を開始した。

1941年が一番ひどかった。三光政策で捉まえたらすぐに殺した。私の叔父は1937年に村の主任になったが、民兵分隊長でもあった。それから従兄弟が17団の班長だった。その後私は石門焉へ行って、ひとりの金皮隊の人間と友達になった。この金皮隊は、ほんとうは共産党で、私は彼に連れられて石門焉や大武のトーチカに行って情報を集めた。毎日収集した情報を、夜に偵察団の人に報告した。42年、日本人もその金皮隊が共産党であることを知り、その村で彼を殺し、私たちは逃げた。

43年、隣村の賀家湾の壕で200人以上が窒息死した。あのとき私たちは別の人の家にいたが、ある人が私にいい隠れ場所があるといった。そういっているうちに日本人がやって来て、山の上を占領した。突然誰かが大声で叫び、機関銃が鳴り響くのが聞こえ、村人はみな隠れた。私ともうひとりは別のところに隠れようと決めた。その後また我々は外に出て、村人を探したが、そのとき村が濃い煙に包まれているのを見た。砲声も聞こえた。日本人が何に火を点けたのかわからなかったが、後になって壕が焼かれたことを知った。夕方になって日本人はいなくなった。村のある人の両親や妻子が中にいるので探しに行かせた。そのときになって、日本人が壕の通風孔を塞いで火をつけ、中に隠れていたすべての人が窒息死したと知った。3日目に村人が行って遺体を担ぎ出した。遺体はみなばんばんに膨れ上がって、ベルトは断ち切れていた。我々の村の人がみな死体の担ぎ出しを手伝い、ひとり1枚の銀貨をもらった。

44年、日本人は西湾に半月以上駐屯し、孫家塔を通って坪頭に行ってたくさんの人を殺した。あのときはみな他の村の人を坪頭まで連れて行って殺した。坪頭の人はいなかった。彼らが共産党だといえば、坪頭の崖の上に連れて行かれ、全部殺された。あの山の崖はとても深く、刀で刺してから突き落とし、80人が死んだ。ひとりは刺される前に飛び降り、生き残った。それからもうひとりが活きている。

私の叔父も日本人に捉まり、道案内をさせられた。日本人は彼を部屋に監禁し、外にふたりの看守が立った。カンの上にもふたりの日本人が眠っていて、叔父はふたりの間で眠った。夜、看守が熟睡しているのを知って、こっそりと逃げ出し、門を開ける方法を見つけて外に出た。

(2007年12月13日採録/78歳)