三交(サンジャオ)

三交という町の名前は、聞き取りをした老人たちの中からもっともよく出てくる地名のひとつです。その名が示すとおり、3つの幹線道路が交わる交通の要衝で、日本軍はここに臨県最大の駐屯地を設営していました(離石はすぐ南側の違う行政区で、離石の駐屯地の方がずっと大きい)。

ここは、賀家湾から臨県に向かうちょうど真ん中あたりにある町で、もちろん何度も行ったことはあります。ただ、町中での取材はまだひとりしかしてなくて、それはどういう人かというと、お母さんが“残留日本人女性”という50代の男性です。そのハーフの彼に「ここは反日感情が強いので、あまり近づかないでほしい」といわれていたし、弟さんと妹さんも町中で商売をしているので、彼らの立場を考慮してこれまで取材はひかえていました。

そのかわりというか、町から徒歩で小1時間の孫家溝(スンジャーゴウ)という村には、これまでに5回行ったことがあり、7人の老人から取材もしています。で、ここで取材しているうちにわかったことがあって、それは、「支工」という強制労働にまつわる諸々の事象です。

日本軍は三交界隈に4つのトーチカを建造していて、その工事に狩り出されたのは、近隣の村々に住む農民たちでした。ところが実際に働いたのは、老人と子ども(もちろん男の子)だけで、壮齢の人間はいなかったというのです。つまり、彼らには常に身の危険がついてまわり、命を奪われる可能性が強かったので、誰も行かなかったからです。

そのうちの老人たちの方は、当然のことながらすでにこの世にないのですが、当時12,3歳の子どもは現在まだ70代ということで、この年齢の人ならばまだまだたくさんいらっしゃるわけです。しかも、下のブログからもご想像いただけるように、この地で当時の12,3歳というと、現代の日本人の感覚と比べて、ずっとずっと“おとな”で、ましてや少年期の強烈な体験ですから、いまも鮮明に覚えている人は多いのです。

他の村々では、日本人が来たと聞くと、みないっせいに逃げ隠れたので、特に女性や子どもは、実際には日本人を見たことがないという人も多いのですが、三交界隈では日常的に日本人がウロついていたわけですし、支工に狩り出されて、日本人を間近に見たどころか、口をきいたことがあるという人も多いということがわかってきました。

そこで私は、いちおう区切りとしての『記憶にであう』も出版できたことだし、賀家湾での取材はもう終わったわけですから、次には三交近くのどこかの村に引っ越そうと思っています。それで23日に、下見を兼ねて孫家溝に行ってみたのですが、残念ながらここは無理だということがわかりました。水がないのです。この村は谷の方にあるので、きっと地下水は取れるだろう、井戸を掘っている家は多いのではないかと期待していたのですが、庭に井戸がある家は1軒もないそうで、共同井戸まで汲みに行かなければなりません。腰痛に悩まされている私には無理で、しかも、周囲が山なのでネットどころか、携帯電話もほとんど繋がりません。この村ならばすでに私を知ってる人は何人もいるので第一候補だったのですが、またゼロから出直しです。

でも、大丈夫。私にはカメラという立派な“平和的武器”があって、孫家溝にも久しぶりに行ったのですが、「ほらほら、前に話してた日本人。この人ほんとうにいい写真撮ってくれるから(タダで)‥‥」と、ばあちゃんがまた別の老人の家に案内してくれたのです。(それがこの下の王老人)

(5月27日)
*写真はいずれも2005年11月に、三交で撮ったもの。
ちなみに、上に出てくる日本人とのハーフの3兄妹は、日本語がまったく話せません。それはなぜかというと、小さい頃子どもたちが周りからいじめられるのを知って以降、お母さんは、家の中でも日本語をいっさい話されなかったからです。お父さんはこの町から強制連行されて遼寧省の撫順炭鉱で働かされ、戦後になってから日本人一家と知り合いになり、結婚に至ったという歴史を持つ人で、おふたりともすでに故人です。