3袋目の紅棗

23日付けの六文銭さんのコメントは、おっしゃるとおりだと思います。村のバスは経営者も運転手もみな知り合いや親戚だったりで、お客さん同士も顔なじみばかりです。いわば村落共同体の環の中を行ったり来たりしているわけで、私がたびたび書くようなこともすべて織り込み済みなのだと思います。これが、環を外れた太原くらいまで来ると、文句をいうお客さんはいるし、北京、瀋陽まで行けば、そもそもバスは定刻に発車します。

実はこれに関して、以前書いた文章で、タイミングを逸してアップしなかったものがあるので、それを思い出して書いてみました。2005年6月にこの地に引っ越して、初めて日本に帰るときのことです。

太原行きのバスは時間になってもなかなか発車しません。これでは高速バスとは名ばかりで、実質時間はローカルバスと同じです。どうやらこちらのバスは、定刻発車ではなく定員発車のようです。1時間以上も待たされ、もう1/3くらいは太原に近づいていてもいいくらいの時間にようやくバスは動き出しました。

離石→太原の高速道はまだ全通していないので、上を走ったり下を走ったりしていたのですが、しばらくしてバスは高速道の入り口辺りで停まりました。そして運転手が何やらいっているのですが聞き取れません。近くにいた標準語が話せる人に聞いてみると、彼は「ここからまた高速に乗るのに余分に料金がかかるので、ひとり5元を払ってもらいたい。それがイヤな人は、そこに停まっているローカルバスに乗り換えて欲しい」と、とんでもないことをいっているらしいのです。このバスは高速バスということで、最初からローカルバスよりは高い料金を払っています。

ところが、3人ほどが降りたのですが、他の乗客は誰ひとり文句もいわず、当たり前のように黙って5元を払っているのです。こんな理不尽なやり方で、日本人よりずっと気短で自己主張の激しい中国人が、どうして誰も文句をいわないのでしょう?私は待たされてイライラが募っていたこともあって、徴収に廻ってきた運転手にへたくそな中国語で;

「私は国外から来た旅行者だけれど、高速バスということで切符を買っている。さんざん待たせた挙句に、さらに料金を取るというこういうやり方は、あなたたち中国人にとっては一般的なやり方なのか?」と、わざと「あなたたち中国人」というところに力を入れて、彼らが最もプライドを傷つけられると思われるいい方で抗議したのです。運転手は何やらわめきましたがもちろん聞き取れません。もとより100円にも満たないお金が惜しいわけではないので、いうだけいっていくらか気分もおさまり、5元を払って、その後ウトウトしている間にバスは終点に到着しました。

さて、今夜の宿をどこにとろうかと、スーツケースをゴロゴロ引っぱりながらキョロキョロしていると、後ろから呼び止められました。振り返ると、いかにも学生風といった感じの若い男性でした。彼はとても丁寧な標準語で、同じバスに乗っていた者だけれど、さっきの運転手のやり方は間違っている。ただ、山西省はまだまだ貧しくて、彼もちょっとでもお金が欲しかったんだと思う。自分は中国人としてとても恥ずかしいと感じている。あなたが払った5元を自分が払うので、どうか許してやって欲しい。といってお金を差し出したのです。

私はびっくりして、初めてこのバスに乗ったので、これからもこういうことがあるのか知りたかっただけで、お金は受け取れないといいました。これ以上に難しい中国語は話せません。すると青年はかわりに受け取って欲しいと、袋に入った紅棗を無理やり私の手に握らせて、夕闇迫る太原の雑踏に足早に去っていったのです。

まるで自分が犯した罪を詫びるかのように、「中国人として恥ずかしい」といったときの彼の瞳には、明らかに苦悩の色が読んで取れました。彼が運転手の行為を恥じたのか、あるいは山西省の貧しさを恥じたのかを聞くことはできませんでしたが、では、おそらくは紅棗がみのる農村の出身であろうあの青年に、恥ずかしいといわしめた、日本人としての私の優位とは何だったのか?

スーツケースは、日本へのお土産として磧口と李家山でもらった2袋の紅棗で、すでにずっしりと重かったのですが、青年からもらった3袋目の紅棗は、スーツケースよりはむしろ私の心を少し重くしたのです。

写真は、今日コンパクトカメラで撮ったもの。ぜんぜん変わらないみたいですねぇ。こないだのじいちゃんにまた会いました、なかなか絵になるじいちゃんです。