まずは“帰郷報告”

昨日21日、賀家湾に戻りました。この時期、ひと雪降ると交通が寸断され、どうにもお手上げ状態になるので心配していましたが、途中一度も雪を見ることはなく、やはりこちらも暖冬気味だと思います。

まずは、恒例の“バスネタ”から。
賀家湾を通るバスは3時半頃に出る一本しかないので、前夜は離石に泊まらざるをえません。春節で混むのを予測して、私は翌日午後2時にターミナルに向かいました。バスは3時前に出たのですが、すし詰めという私の予想に反して、ひとりも立っている人がいないのです。なるほど、最近は定員オーバーに対する取締りが厳しく、特に春節特別警戒体制に入っているので、定員を守っているのでしょう。なにしろひとり400元だかの罰金が課されるのです。この稼ぎ時に気の毒に、と同情もしたのですが、いつになくゆったりと途中で客待ちすることもなくバスは目的地に向かいました。

ところがです、取締りポイントを過ぎたのでしょう、バスは停車しました。するとすぐ後ろに着いていたバスからドドッとお客さんが乗り移ってきて、たちまち車内は定員の2倍の乗客になったのです。前にも書いたことがありますが、この近接の村に行く2台のバスは、いつも一緒に行動していて、お客さんを入れ替えたり、運転手が交代したり、ほとんど共同経営に近い状態です。

それにしても、私は幸い乗り換えられた方だからよかったものの、乗り換えさせられた方は、みんな春節の大きな買い物袋をいくつも抱え、まだ1時間はあるのに全員立たされて、特に文句をいう人もなく、この地の人たちはどうしてこんなに忍耐強いのかほんとうに不思議に思います。で、カラになったそのバスは、再び離石へと向かったのです。もともと時刻表などあって無きが如し、この時期、何時に行っても客は拾えます。この稼ぎ時に、と同情した私があさはかでした。

しかし、ここまでなら私も驚きません。問題はここから始まるのです。それから30分くらい走ったところにちょっとした村があって、ここではかなりのお客さんが降ります。それまでに降りた人もいるので、バスの中は5,6人が立っている程度になりました。賀家湾まではあと30分くらいです。これなら陽が明るいうちに帰れるなと安堵したのですが、どういうわけかそこからバスはいっかな動こうとしないのです。待てど暮らせど。「どうして動かないの?」と近くの人に聞いても、「わからない」というばかり。運転手の姿も見当たりません。暖房などはなから効かない車内は、夕暮れとともにジンジンと冷え込んできて、これではまたまた風邪を引くのではないかとジリジリしてきたちょうど1時間後、なんとあのバスがまたまた後ろに着けて、乗っていたお客さんをドッと吐き出したのです。バスは再び身動きのできないギューギュー詰めになってようやく出発しました。それでもって、いつ崩れ落ちても、いつ土砂に埋まっても(つまり両側とも危険)不思議でない崖っぷちの道をヨロヨロ登っていくのだから、ほんとうにこの3年半の間、よく無事で生きながらえられたものだと自分でも感心するくらいです。それで、カラになったバスが、再々度離石へ向かったのかどうか?までを確認する気力は、もうありませんでした。

という顛末でゆうべ帰ったのですが、やはりというか、風邪気味で薬を飲んで横になっていました。すぐ上の、村の書記の家で結婚式があって、馬に乗ってお披露目をしたようですが、今日は氷点下の上に強風で、残念ながら部屋の中でじっとしていました。

心配していたなつめはびっくりするくらいデブになっていたので聞いてみると、私がいなくなって3日ほど何も食べずに泣いていた(?)というのです。それで仕方なく、卵や牛乳などおいしいものばかり食べさせていたそうで、その上に運動不足がたたったのでしょう。寒いので大家さんのカンの上で寝ていたらしく、私も部屋の中に入れました。外は砂嵐、中はなつめ埃で、私はマスクが一時も離せなくなりました。天気がよくなったら高原のてっぺんに連れて行って、思いっきり走り回らせてやるつもりです。

今年は26日が春節です。25日が過年といっていっせいに家々に対聨が貼りだされ、村が美しく彩られます。1週間はバスが走らないのでずっと村にいます。また写真を撮ってアップしますのでお楽しみに。長くなりましたが、まずは“帰郷報告”です。

(1月22日)