王貽讓老人(78歳)の話

日本人はやって来てはこの村をひどく侵害した。物が略奪されたり破壊されたのはほんとうに多かった。ある村人が日本人に見つかったとき、日本人は「おまえは‥‥」といって、彼を取り囲み、手榴弾を爆発させた。とても残酷なやり方だった。私ともう一人で遺体を引き取りに行ったが、顔がぐちゃぐちゃに潰れてまったく見分けがつかず、ただ目玉ひとつだけが残っていた。

日本軍が三交に来たとき私は14,5歳で、日本軍がトーチカを造営するときには、働かされたこともある。日本人のために労働をさせられた人はたくさんいるが、仕事が終わってから、日本人はみなを並ばせて相撲をさせた。一日の労働が終わってみな疲れていたが、それでも日本人は力一杯やれといった。やらなければすぐに殴られた。そうやっていつも人々を侮辱していた。ときには労働者を地面に並べて跪かせ、頭のてっぺんを棍棒で殴った。たくさんの人の頭が破れて血が流れると、日本人はその上にシャベルで土をすくってかけた。相撲をするとき、本気でやって地面に倒れたと思われるときは殴らなかったが、自分からわざと倒れたと見ると、やはり殴った。棒で殴っても頭が破れないと、また殴った。労働をしているときには日本人の見張りが立っていて、行くときも帰るときもいつも殴られた。ときに、彼らのしゃべっている言葉の意味がわからないと、それでまた殴られた。あのときは私たちの村は“維持村”だったし、“良民証”も持っていたが、それでもなおいつも侮辱され、殴られ、罵られた。

孫家溝は駐屯地があった三交から近いので、日本軍はしょっちゅうやって来た。時には3〜5人、時には大部隊でやってきた。南山上にもトーチカがあった。

あるとき、村人が高家溝の崖の途中にある洞窟に隠れていたときに、漢奸が日本人に中に民兵がいると密告した。それで日本人は部隊を連れてやってきた。唐辛子を持ってきて、入り口で火を点けた。中にいた人たちは窒息死させられてはたまらないと思ったが、日本人は壕の入り口で火を点け、もうひとつの入り口の前ではサーベルを持って村人が出てくるのを待ち構えていた。出てきたものの数人はサーベルで刺し殺され、またあるものは崖の下に突き落とされた。日本人は私たちの村で、全部で10数人を殺した。石門焉など、別の村に連行されて殺されたものもいた。

ある年の秋、村はすでに維持されていたが、私たち数人が山の上の畑へ作物の収穫に行った。そのとき一個の手榴弾と鎌を持って行った。金皮隊と数人の日本人がやってきた。私たちは大声を出しながら、心の中ではもしも彼らが逃げたら追いかけよう、もしも彼らが私たちに向かって攻撃してきたら逃げようと考えていた。私たちは全部で7人で、一声叫ぶと、なんと彼らはこそこそと逃げ出した。私たちは彼らを追いかけ、トーチカのすぐ近くまで来てから、彼らに向かって持っていた手榴弾を投げた。彼らが「早く門を閉めろ!八路の大軍がいるぞ!」と叫んでいるのが聞こえた。実際のところは私たち7人の農民だけだった。そのときは、日本軍がまもなく投降する頃で、八路軍が三交まで迫ってきていた。

(2005年11月9日 採録