孫家溝 

今回9月にこちらに戻って以降、まったく初めての取材という人はほとんどいません。ひとつには、この界隈、つまり私がバイクの後ろに乗せてもらって日帰りできる距離の村々での取材は、だいたい終わったといっていいと思います。

それで、最近は、これまでに取材した人たちに、あらためて本にするときの掲載許可をとりにまわりつつ、ひさしぶりに近況を訪ね歩いています。そもそも取材するときに、「いずれ日本で本にまとめて発表したい」といっているので、これまでのところ断られたことはありません。

昨日は、孫家溝というバイクで1時間くらいの村まで行ってきました。一時期氷点下10℃を切るときもあったのですが、最近はまた暖かくなって、使い捨てカイロを背中に1枚貼り付ければなんとか大丈夫です。その上に、らくだの毛のズボン下とヤクの毛が入ったセーターを着ます(まぁ、どこまでホンモノか?あまり信用していませんが)。陽が高くなる11時頃に出発して、遅くとも4時頃には戻ってきます。私はともかく、運転手の李二龍が、元人民解放軍のくせして根性ナシで、「自分は前に座っているから風を全部受けている」と、寒さに震え上がっているからです。

孫家溝というのは、私が聞き取りを始めたもっとも初期の頃に行ったところで、記録を見ると、2005年の11月9日に行っています。つまり3年経っているわけで、当時75歳と78歳だったふたりの老人がまだ存命かどうか、村に着くまでとても心配でした。このふたりは、三交にあった日本軍のトーチカの造営に狩り出された経験があり、日本人と直接何度も口をきいたことがあって、とても興味深い話を聞かせてくれたのです。そして心配は半分あたっていて、75歳だった孫明海老人は、昨年すでに亡くなっていました。

もうひとりの王貽譲老人は健在でしたが、3年前より明らかに歳をとり、記憶があいまいになっていて、私の質問からは的が外れた答えが返ってきました。元八路軍の精悍な面立ちだった王老人の眼差しが、ときにうつろに宙をさまよい、3年間というのは、人の脳が老いてゆくにも充分な時間だったということを教えてくれたのです。

彼はお兄さんが日本人に殺されているのですが、写真が1枚もないことをとても残念がり、自分もまた1枚も持っていないと、なぜか写真のことを何度もいっていた人です。当時の私はポケットカメラしかなく、彼にあげた写真はいいできばえではなかったので、いつかもっといい写真を撮ってあげようと、ずっと気になっていた人でした。ところがなかなか機会に恵まれず、ようやく今回の再訪となったわけです。

ところで、これまで私の取材に応じてくれた人たちに対する“謝礼”というのは、タバコが2箱(セブンスター1個と中国タバコ1個)と、A4くらいに引き伸ばした写真1枚だけです。あまりに薄謝といえば薄謝ですが、私の財政状況からいうとそれ以上のことはできません。そしてこれまでは、いわゆるスナップ写真の中から選んで引き伸ばしていたのですが、最近は最初から“葬儀用”のバックを塗りつぶした、正面を向いた写真をあげることにしています。どうも日本人の感覚からいうと、初対面に近いような人たちに葬儀用の写真をあげるというのは気が引けるものですが、彼ら自身が望んでいるのは、一瞬の表情をとらえたスナップではなく、葬儀のときに額に入れ、子や孫たちが胸に捧げて「こんなに立派な葬儀をしましたよ」と、村人たちに告げるための証ともなる写真なのです。

実際に、これまで幾度か私の写真が葬儀に使われているのを見、人づてにも聞きました。葬儀が終わった後には、その写真は部屋のよく目立つ場所に掛けられます。“三光作戦”の村々で、日本人が撮った老人たちの写真が、これからも村人たちを静かに見守ってゆくという不思議な縁を思わないではいられません。

(12月16日)