3周年の祝い

15日付けのコメント欄に「古稀のお祝いがある」のでレポートします、と書いたのですが、私が相変わらず土地の言葉が聞き取れず、ぜんぜん違ってました。「古稀の祝い」ではなく、「3周年の祝い」でした。ですがせっかくなので、これのレポートを。

日本だと「3周忌の法要」といいますが、こちらではあくまで「祝い」です。人が死ぬと1周年、2周年の儀式がありますが、3周年が済むとそれですべてが終了し(あくまでこの界隈の風習で、太原ではもう違っているようです)、死者が冥土に還ってゆけるので“喜事”なのです。その後は、“先祖の墓参り”を年に2回ほどするだけで、これは日本と同じようなものです。

墓は土まんじゅうだけで、墓標も何もありませんし、日本と違って、一組の夫婦でひとつの墓が、風水師の見立てによっていろんな位置に作られるので(時に親族がかたまっている場合もあります)、もう誰の墓かわからず、柔らかい黄土の土盛りは一雨ごとに崩れて、あまり長くない時間のうちに自然に平地に戻ってゆきます。私がなつめを連れていつも散歩に行く山の上の耕作地の下にも、名もなき無数の農民たちが永遠の眠りを眠っているはずです。

墓は村落の近くの耕作地に作られるのですが、なにしろ風水師が決めることなので、つまり自分が耕している畑に、赤の他人(といっても親戚関係が多い)の墓が突然出現するわけです。日本ならあり得ないことですが、こちらの墓は日本のように陰湿なおどろおどろしい感じはなくてカラッとしているので、せいぜいじゃがいもの収穫量が5kgくらい減った程度の損失感ではないかと、私は思っていますが、このあたりはまた村人に聞いてみましょう。

で、今回の樊家山の3周年はずいぶん立派なものでした。葬儀のときと同じように楽隊を先頭に、親族が飾り物を持って村を一周し、墓に行って豚の頭や羊の頭、お菓子や果物や酒をお供えして、娘が“哭き”、紙銭を燃やし、最後には飾り物に火をつけて20分くらいですべてが終了しました。読経のようなものはいっさいありません。

その後、村の広場の仮設舞台で、「秧歌」(ヤンガー)が披露されました。これは遺族側がお金を払って秧歌隊を呼んだものです。「秧歌」というのは、古くからある漢族の民間伝統芸能で、祝い事があるときに歌ったり踊ったりします(10月22日付けの結婚式の写真は秧歌踊りです)。コメント欄に「踊りを踊る」、と書きましたが、これは私の聞き違いではなく、歌を歌うのも踊りを踊るのも、同じ言い方をすることがあるのです。今回は踊りではなく、「歌」でした。ただしこの「歌」というのは、語り物で、日本でも昔正月に門付けにやってきた「万歳」がありましたが、ちょうどあんな感じです。「3周年が終わってめでたいな、めでたいな〜〜」というようなことをいっているはずですが、私にはさっぱり聞き取れず、面白くないので、帰ってきました。これが終わると村人に食事が振舞われます。

太原からやってきた長女という人に聞きましたが、費用は全部で3,4000元かかったそうです。ちなみに、こちらでは「○○にいくらかかったの?」と金額を聞くのは、少しも失礼なことではなく、時には聞いてあげたほうが喜ばれることもあります。が、こんなに派手に3周年をやるのはあまりないことで、普通は親族だけで簡単に済ませるようです。しかし、現金収入の限られたこんなビンボーな村々で、なぜ「弔事」がこうも“派手”なのか?

日本ならば、故人の意思とか親族の思惑などに弔事のやり方、お金のかけ方は大きく左右されると思うのですが、こちらではズバリ、お金があればあるほど、つまり子供たちが“出世”すればするほど、弔事は派手になるのです。そして村人たちが普段は口にしない豪勢な食事が振舞われ、酒タバコがふんだんに配られ、チーガイつまり“乞食”といわれる人たちにも爆竹を鳴らすという役割が配分され、それもできない年老いたチーガイには末席で食事が与えられ、そしてその下では、犬たちがおこぼれをちょうだいし、つまり、「弔事」を舞台に、くまなく“富の再配分”がなされているのだと思います。今回村に戻ってから、なぜか爆竹の音を聞くことが多く、1本のタバコ、1杯の酒にも、しみじみ“富”を感じる今日この頃です。

(11月17日)