犬を売る

ようやくなつめから目が離せるようになったし、朝っぱらから停電で、じっとしていると寒いので、下の招賢まで買い物に出かけました。その帰り道で恐ろしいものを見てしまったのです。

トラックの荷台に2段の檻がしつらえてあり、中にたくさんの犬が積まれていて、それは一目で“犬買い”の車だとわかりました。ナンバーを見ると遼寧省からやってきたようです。遼寧省といえば瀋陽がある東北地方で、ここからはずいぶん遠いところです。つまり、ここまで犬を買いに来るメリットがあるということでしょう。

この地には「犬を食べる」習慣はありません。それどころか、肉は高いし現金で買わなければならないので、日常的な食生活の中で口にすることは滅多にありません。

しかしこの地には、頻繁にではないけれど、「犬を売る」習慣があることは、かなり前から知っていました。最初の頃は、それまで見かけていた犬が突然いなくなるので、どうしたのかなぁと思っていましたが、あるときに、「四川人に売った」という話を聞いて納得しました。いなくなるのは、みなシェパードのような大型犬で、近くには四川省から来た炭鉱労働者がたくさん暮らしているからです。彼らは犬肉を好んで食べます。

「牛や豚やクジラならいいけど、犬はかわいそうだ」などという気は毛頭ありません。食文化の違いであり、犬を飼育して何がしかの現金に換えるのを、むしろ仕事としていたとしても、何の咎があるでしょう。私が以前同じ敷地で暮らしていた湖南省出身の友人は、私が日本に帰るやいなや、私が面倒を見ていた子犬(その友人のもの)を、若い方がうまいからと食べてしまいました。犬肉はおいしくて滋養に富み、とても身体を温めるのだそうです。

檻の中のたくさんの犬たちは、近未来の自らの運命を知る由もなく、ある犬たちは寝そべり、ある犬たちは戯れ、鳴いたり吠えたりしている犬は一匹もいませんでした。この地ではみな放し飼いで人慣れ犬慣れしているので、滅多に吠えないのです。中にまだおっぱいにしゃぶりついている子犬が5,6匹いたので聞いてみると、母犬を買ったら離れないので一緒に連れてきたそうで、これは欲しい人にあげるのだといっていました。

私はほとんど泣きそうな思いだったけれど、恐いもの見たさでそこを離れることもできず、しばらく立ち止まっていました。通りがかりの何人かが「いくらで買ってくれるんだ?」と犬買い人に聞きます。それは興味本位ではなく、明らかに、高く買ってくれるなら売りたいといった表情でした。「それは見てからでないとわからない」「あそこにいる白い犬くらいだ」「7,80元で買う」。80元といえばこの地では大金です。もともとその気はなかったとしても、金額を聞いてそれなら、と考える人はいて当然だと思いました。

ひとりの村人が一匹の犬を曳いてきました。大型の灰色のメス犬でした。犬買い人は長い棒の先に大きなヤットコが付いた道具で犬の首を後方から廻り込んでグッと挟み、暴れる犬を手馴れた様子でつるし上げてトラックの檻に放り込みました。その間かつての主人は、憐憫の翳りを見せることもなく、むしろ農産物が仲買人に引き取られていくのを見守るような満ち足りた表情で、犬買い人から80元を受け取ったのです。

片や避妊手術の経過にオロオロあわてふためく私と、自分が飼っていた犬を売った、人のよさそうな顔をした村人との間に横たわる“文化”の違い。そしてその背後に無限に拡がる、それらを育み培ってきた“時間”。3年以上もの年月をこの地で暮らし、数え切れない村人たちと、ときに頷きときには反発もし合いながら交流を重ねてきたつもりだったけれど、「犬を売る」村人の顔は明らかに私の思い込みをすり抜け、思い上がった認識をゼロに引き戻して余りあるものでした。この広大な黄土高原の片隅で、いったい私は何かを理解したのだろうか?と。

(11月11日)