永訣の別れ

(しばらくネットが繋がらない状態で、留守にしてしまいました)

先月25日に村の中をぶらぶらしていたら、「今朝方、賀登科老人が死んだ」というニュースが飛び込んできました。前に住んでいた部屋の2軒となりのヤオトンで、しょっちゅう顔を合わせていましたし、何より私がこれまでに4回も聞き取りをした老人です。それに、つい1週間ほど前にもいつもの穏やかな顔を見かけたばかりでした。

急いで行ってみると、門のところに「歳紙」という、死者が出た証の白い紙の幟が掲げられていました。これは、年齢+天と地の2枚の紙を合わせて作るもので、葬儀の日まで掲げられます。こちらでは、死んでから葬儀までが長いのが普通なので、それが目印になるのです。葬儀の日取りは風水師が暦を見て決めます。これまでの経験でいうと、だいたい1,2週間後、長いときは1ヶ月以上の間があきます。

ところがその暦がいいので、葬儀は翌日だというのです。それで、老人の家には親族たちが集まって、あわただしく走り回っていました。葬儀の中心になって事を運ぶのは、どうやら長男の長男のようでした。普段村にはいないので、初対面でしたが、葬儀の様子を撮らせて欲しいというと、むしろお願いしたいと快諾を得られました。こちらでは、高いお金を出して写真館のプロに全行程を撮影してもらうのが流行なのです。

葬儀の行程に関しては、これまでも何度も書いているので、今回は、これまで見たことがなかった、あるいは心に残った情景だけをご紹介します。

まず私は賀登科老人の遺体と対面しました。布団ではなく、板の上に載せられてカンの上に安置されていました。濃いブルーの中国服に少し薄めのブルーのズボン、靴もブルーで、すべて新品です。顔には大きな白い紙が被せられ、合わせた手の指は、天を指すように麻紐で縛られていました。この麻紐は、近親者はすべて腰にまき、遺体が安置された部屋の扉も麻紐で縛ってありました。手に大きな数珠のようなものをかけているので、何かと聞いてみると、それは狼よけのおまじないで、小麦粉でコインのようなかたちのものをやはり年齢+2枚作って、狼がやって来たら投げ与えるためのものだそうです。

こういう話を、私は老人の長女という人に遺体の傍らで聞いたのですが、彼女の表情からは父親を失った哀しみのような翳りは、外から見る限りまったく感じ取れませんでした。人生最後の儀式というよりはむしろ、華やかなひとつの“通過儀礼”のような感すらしたのです。写真もどうぞということで、貴重な1枚を撮らせてもらいました。

葬儀の進行はすべて村人たちで執り行われ、その役割分担を書いた紅い紙が壁に貼り出されます。墓掘りに始まって、料理、水汲み、皿洗いと続くのですが、どうやらすべて男性の名前のようです。女性も料理の下準備や皿洗いなど手伝いますが、あくまで葬儀は男性によって執り行われるというのがこの地の風習のようです。ところが、その紙を目で追っていって最後の方で私はハッと息をのみました。そこには「撮像 日本人」と書いてあったのです(ちなみに私は女性)。村人たちは私の名前が覚えにくいので、みな私のことを「日本人」と呼んでいますが(そもそも村ではきちんと名前で呼ぶという習慣もなく、アダ名とか、誰々のお母さんという呼び方がほとんど)、それは実は単なる外国人に対する呼びかけの域を超えて重い意味を持つものなのです。この村でも多くの人が日本人に殺されていますし、亡くなった賀老人は、当時の抗日民兵の隊長だった人です。彼はもちろん、近親者の誰かにわだかまりがあれば、葬儀に参列することすら拒否されても不思議はないのです。彼の人生の最後のセレモニーを、こうして日本人の私が撮影(祭壇の遺影も私が撮影)することになった不思議な縁と村人たちの寛容を思わずにはいられませんでした。

ビデオに編集して渡さなければならないので、大事なところを撮り落さないよう、心したつもりなのですが、いろいろなところでほんのちょっとずつ違っていてあわてました。去年もこの村で撮っているので、私はてっきり同じだと思っていたのです。一番違っていたのは出棺で、これまではみな出棺の時、棺の前で女性たちが跪いて慟哭するという儀式があって、女性は葬列の最後についていたのですが、ここでは、慟哭の儀式がなくて、女性は先に埋葬地に行って、棺を出迎えるという形式でした。初めて見る形です。

合葬の仕方もこれまでに見たことがない形式でした。それで少し撮り落としてしまったのですが、埋葬地に着くと、そこに紅い布でちょうど大人の上半身が入るくらいの小さなテントが張ってあって、その中に先に亡くなったオクさんの骨が仮埋葬された(つまり、妻が先に死んでも墓は作られない)穴から掘り出されて置いてあったのです。私がそこに着いたときには、60代後半を数える長男がそこに頭を突っ込んで、わぁーわぁー大声で泣いていました。彼は30年以上前に亡くなったお母さんの骨と対面したわけです。これは儀式としての“慟哭”ではなく、ほんとうに“自然”な、ちょうど幼い子がお母さんにしがみついて泣いているのと同じで、切なく甘くそして哀しげに、朝もやの黄土高原に響き渡りました。

もうひとつ私の心をうった光景がありました。それは埋葬前夜のことで、祭壇も半ばとりかたづけられ、会葬者の姿もひとり消えふたり去り、ちょうど棺が置いてある部屋が無人になった午後10時頃、何か黒い小さなものがサーッと走り込むのを私は目の端に捉えました。今頃何だろう?と思って部屋に入ってみると、それは老人が飼っていた犬だったのです。私が入っていっても、彼は棺の枕辺で微動だにせず、固く目を閉じ、丸く小さくなって、じっと哀しみに耐えているように見えました。むしろ“祝祭的”とでもいえる華やかな風景の中で、そのほんの小さな空間だけには静謐が満ち、“部外者”の進入を拒否しているかのようでした。人間たちの姿が消えた間隙をどこで待っていたのか、数時間後には絶対の闇の中に還ってゆく賀登科老人に、きっと彼は永訣の別れを告げに来たのでしょう。

(11月5日)