劉有生老人(81歳)の話

日本人は汾陽で一度に47人を殺した。その中に私の父がいた。当時私の父は周りの村の47人と一緒に汾陽に荷を運んでいた。汾陽の慶勝店(*店名)に行って、荷を整えてから食事をしようとした。東則番(*地名)のひとりが外へ酒を買いに行って、帰ってくると日本人が旅館を包囲しているのが見えた。それで彼は酒を投げ捨てて逃げた。けっきょく、48人のうち彼ひとりが逃げ、その他の47人と店の主人が捉まった。2日目、日本人はこれらの人を刀で刺し殺したあと生死も確認せず、大きな穴に投げ入れた。ある人はその場で死んだ。まだ生きている人もいたが、日本人が周りを見張っているので、上がってくることはできず、誰も助けに行くこともできずに、やがて徐々に餓死した。

当時、彼らは買った荷物を村に運ぶところだった。私の村の劉という姓の一家の荷物は戻ってきたが、私の家は荷物を運んだ人すら戻らなかった。私たちの村には当時共産党の軍人はいなかったし、私の父も兵隊ではなかった。当時母は29歳で、子供は5人だった。父が死に、ふたりの小さい弟はよそにもらわれていった。私はそのとき12歳。母は再婚しなかった。一家はとても生活が苦しかった。あのとき、汾陽で、私たちの村では7人が死んだが、私の父は年齢が一番上だった。父が死んで後、私は糊口をしのぐために河南人がやっている本屋へでっちに入った。給料はなくただ衣食が足りるだけで、あの頃はもう少しで餓死するところだった。街に出ては麺をゆでた茹で汁をもらって飲んだ。

日本人が牛や鶏を盗むのはいつものことだった。それから女性を陵辱した。私の叔母は、日本人に犯されてから離縁されて家に帰され、後になって再婚した人だ。西湾村では村人が捉まり、老若男女数十人が素っ裸にされた。日本人は自分たちが楽しむために、私たちの村の富有に女性たちを犯せといった。しかし彼はそれはどうしてもできなかった。なぜなら彼女たちはみな叔母や伯母や同じ村の親しい人たちだったからだ。けっきょく日本人は富有を殺した。

初めのころ、日本人も人を殺さず、人々は崖の中ほどの洞や洞窟に隠れた。その後日本人がいたるところ追い掛け回すようになった。若い者は逃げるのが速かったが、老婦人は足が小さかったために走れず、ある人は捉まって陵辱され、あるものは殺された。子供を連れた女性は逃げられなかったが、それでも捉まりときには殺された。日本人は中国を侵略して3ヶ月で消滅させられると思っていたが、けっきょく8年戦争をして後投降して国に帰った。私が12歳のとき日本人はここに来たが、それからすでに69年が過ぎた。

(2007年11月27日 採録