白探有老人(76歳)の話

日本人は磧口にやって来て、西湾に1ヶ月以上住んだ。毎日近隣の村々を侵犯し、私たちは毎日あっちからこっちへと逃げ隠れなければならなかった。ときには日本人に見つかって自分の家に連れ戻され、金や食べる物を出せと要求された。

私の村の老七という男の連れ合いが捉まって家に戻された。あのとき彼女は私たちと同じ場所に隠れていた。日本人は彼女を村に連れ戻り、殴って金を要求した。それはとてもひどくて、私たちが隠れていたところまで泣き声が聞こえたくらいだ。ほんとうに残忍だった。

2度目に私たちの村に来たとき、ある農家の庭で一頭の牛の肉を生きたまま削ぎ、刀の上に乗せて焼いて食べた。彼らが行ってから、私は残っていた骨と肉を拾って持ち帰り、飢えを充たした。

日本人は私たちの村の白夫妻を焼き殺した。その家は金持ちだったので、多分金を要求しに行ったのだろう。その後日本人はふたりをカンの上に押し付けて家に火を付けた。おばあさんは逃げられず、おじいさんは門のところまで逃げたけれど、焼け落ちてきた柱にあたって死んだ。その他の人もある人は門を焼かれ、ある人は戸棚の扉を焼かれた。これらはみな同じ片側を焼かれたので、後でどこの家も新たに組み合わせることもできなかった。ほんとうに酷いやり方だった。

一度日本人は私の伯父ともうひとりを捉まえて、盗んできた鶏を焼いて食べるために柴を探させた。そんなものはどこにもなくて、伯父は仕方なく自分の家の門を壊して火を点けるしかなかった。それから谷底に逃げて隠れた。もうひとりの人は逃げる途中で日本人に追いつかれて殺された。

(07年10月20日 採録