賀翻英老人(73歳)の話

当時私は8,9歳で東李家山に住んでいた。村はすでに“維持”されていた。日本人は石門焉に駐屯していて、時々やって来たが、人を殴ったりはしなかった。彼らは子供たちを頭の上に持ち上げてぐるぐる回したり、また下ろしたりして遊んでいた。

その後“維持”されなくなったら、人が殺されるようになった。殺してから谷に投げ落とされた。中には死ななかった人もいてうめき声をあげていたり、泣いていた人もいた。私たちは逃げるとき死人の山の中を通ったが、当時はただ日本人が恐くて、死人など恐ろしくはなかった。

一度私が日本人に出会ったときちょうど犬を連れていた。金皮隊のひとりが私に犬をよこせといったが私はあげなかった。その後彼の上官がやってきて、「子供を相手にするな」といってやめさせた。彼は私を放した。

私と祖母が米を挽いていたとき、日本人が来て私たちに火を要求した。祖母はいっていることがわからず、ひしゃくに水を一杯くんで渡した。彼らはひと目見て祖母を殴りつけ、水が地面にこぼれた。ひしゃくも地面に落ちた。私は祖母に、「彼らはマッチを欲しがっているのよ」といった。日本人がやって来て私の頭をなでて、「おまえは賢いチビだな」といった。彼らは子供は傷つけなかった。

それから私の村のひとりの解放軍人は、戦闘のために数日間も睡眠をとっていなかった。村には彼のいとこがいた。いとこの家にやってきて銃を壁にかけ何事もないと思って服を脱いで眠った。その後いとこが状況を見に行ったら日本人が村に入って来るところだった。彼は堆肥の山の陰に隠れて、日本兵がいなくなるのを待って逃げたが、その解放軍人に伝えるのに間に合わなかった。けっきょく日本人が入っていって殺した。背中や胸を何ヶ所も刺され、その後引きずりだして裏の花壇の井戸の中に投げ入れた。

当時はとにかく恐ろしかった。来ると聞くだけで、恐怖に身が震えた。大人も子供もなりふりかまわずみな逃げて洞窟や暗渠に隠れた。夜寝るときも服は脱がなかった。数年間ずっと熟睡できたことはなかった。最初に来た頃は人殺しはしなかったけれど、後になってどんどん酷くなった。ときに洞窟の中に隠れていると、穴の上から銃弾が満天にとびかっているのが見えた。まるで紅色の小鳥が飛んでいるようだった。私たちは決して外には出なかったが、日本人がいなくなると、子供たちが薬莢を拾って金に変えた。

私は当時8,9歳だったけれど自分が経験したことはよく覚えている。彼らはだいたい毎日来ては侵犯した。彼らはやってきては、止むことなく銃声を轟かせた。

(07年10月31日採録