李品象老人(79歳)の話

日本人が来たときに、3日間支工(*労働を提供すること、人)をさせられたことがあるので、自分の眼で見たことはたくさんある。私は当時13歳で叔父の代わりに行った。もしも行かなければひとりにつき毎日3枚の銀貨を払わなければならなかったが、私の叔父は金がなく、また閻家坡村の幹部だったので、行って日本軍に殺されるのを恐れたからだ。

支工の1日目は石門焉で瓦を運んだ。一度に3つのレンガを背負って運び上げたが、ものすごく重かった。それはトーチカの造営に使われた。2日目は庭の掃除をさせられた。彼らも私のような子供には無関心だった。3日目はまた瓦運びだった。行ってその日には帰った。毎日まず名前を書かされたが、子供は書かなくてもよかったし、殴られることもなかった。しかし、私は殴られたことはなかったが、ひどく殴られて、自分ではまともに歩くこともできない人もいた。一匹の小さな犬も監視していて、ちょっとでも休んでいる人を見つけると、すぐにワンワンワンと吠えた。

監視人は手に棍棒を持っていて、働かないと尻を殴られた。ひとりは殴られて以降は、道を歩くのもよろよろふらふらしていた。彼はその頃乞食をしていて、食べ物を少し与えられていたが、とてもひどく殴られていた。

私の村にはほんとうに何回も来た。牛やロバは19頭盗まれ、彼らは牛を売って金に換えていた。一ヶ月以内に7回来た。たくさんの人が殺されたが、私が知っているのは5人だ。腊八節(*釈迦が悟りを開いた日とされ、腊八粥を食べる習慣があった)のとき国則が殴り殺されて、胃の中のものが全部流れ出た。私たちの村からは2,30人が連れて行かれ、金を払って連れ戻した。金がない人は全部殺された。

私の家は一間だけのヤオトンで、門と窓を新しく作ったばかりだったが、みな焼かれた。タンスと長持ちも焼かれた。門を焼くときは必ず同じ片側の扉を焼いたので、あとでどこの家の門扉とも組み合わせることができなかった。私たちはどうしようもなくなって、近くにあった廟から扉を持ってきて、それは今でも使っている。ヤオトンの奥にもうひとつ蔵にしている小さなヤオトンがあったが、そこに隠してあった食糧も全部盗られた。

彼らは門をはずしてから庭に積み上げて焼いた。庭の干草も全部焼かれたので、牛が食べるものも何もなくなった。ウチの牛も持っていかれたけれど、金を払って買い戻した。金が払えない牛は殺されて食べられた。自分で家に帰ってくる家畜もあったけれど、ウチの牛はバカだったので帰ってこなかった。畑を耕すのにどうしても必要だったので、29枚の銀貨を払って買い戻した。

(2007年5月10日 採録