薛開考老人(75歳)の話

日本人は私の村に何度もやって来た。あるとき、私たち十数人が大きな石の下の割れ目に隠れていたとき、見つかって全員捉まって村に戻された。私たちは彼らの言葉がわからなかった。彼らは私の父を殴りつけ、父は恐ろしくなって跪いた。それから日本人は私たちを村の裏山にあったひと部屋に連れて行き、外から鍵をかけた。ここでは殴られたりはしなかったが、ふたりの若い女性を連れ去り、他の人たちはその部屋にとじこめられた。数日たって連れて行かれた女性のうちひとりは帰ってきたが、もうひとりは消息が途絶え、今に至っても消息不明で、殺されたのかあるいはどこかに連れて行かれたのかはわからない。帰ってきたその女性は今も生きている。

別のとき、私たちが馬杓岇の正面の崖に隠れていたら、向かいの山の上でひとりの人が日本人に殴られて大声で泣いて、泣き過ぎてもう力もなくなっているように見えた。その後、日本人は火を焚いて、彼を殴って火柱の中に突き落として焼き殺したのを私は見た。

ある人が私の叔父が日本人に殺されるのを見た。村の人が私たちを叔父が殺されたところに連れて行ってくれた。叔父は身体に数発の弾丸が中っていた。加えて刀で腹を割かれていて、腸が外に引きずり出されていた。見た人が私たちに、叔父は日本人が来たので逃げたが、日本人は追いつくことができずに遠いところから発砲した。弾が中って倒れ、彼らがやってきて刀で腹を割いた、と教えてくれた。

2番目の叔父も日本人に殺された。死んでから彼の16歳と15歳の女の子と10歳前の男の子は全部死に、彼の母親も死んだ。妻は子供たちが死んでから他家へ嫁いだ。当時は医学も発達していなくて子供がたくさん死んだ。私の村のある女性は16人の子供を産んだが、ひとりも育たなかったという。また、日本人が来ると聞いて外に逃げて、野原で子供を産んだ女性もいた。私の村の榮旗は野原で産まれた子供だった。

私の家も焼かれた。村の中でも、私の家は明代の建築様式のいい家だった。日本人は西湾を出て堯昌里村にやってきて、火を点け物を略奪し、一通り狼藉を終えると夜になって帰って行った。彼らは遊撃隊の襲撃を恐れて、村に泊まることはなかった。日本人が行ってから家に帰ると、家の犬が殺されていた。

部屋の中も焼かれていた。私の家は村の一番低い位置にあって、逃げるときはずいぶん遠い山の中まで逃げた。私の2番目の叔父の家は2度もひどく焼かれた。これも明代の建築様式で、私の家よりももっといい四合院で、東西両方にあった部屋が全部焼かれた。

日本人が最初に来たときは、人を傷つけなかったが、その後傷つけるようになって、しかもだんだん酷くなった。それらはみな警備隊(*日本軍に雇われた漢奸)が道案内してきたときだった。

当時政府のスローガンは“清室空野”で、家の食糧、価値のあるものは全部地下に埋めた。日本人は探し出すことができないと、村人たちの牛をひっぱっていった。私の家の牛も広場の大きなエンジュの木の下で肉を剥がれて焼かれて食べられた。日本人はたくさんの牛を略奪した。彼らはロバや馬は食べず、牛だけを食べた。

あるとき、私の遠い親戚が、彼の家はとても貧乏だったが、日本人から逃げ遅れて、私の家の庭の苗置き場に隠れた。しかし、日本人に見られて見つかり、殺すといって跪かされた。彼が「兵隊さん、あなたたちは牛肉を食べますか?」というと、日本人は彼を立たせて牛を探しに行かせた。彼を縛らなかったので、チャンスを見て逃げた。日本人は発砲したが彼には中らなかった。彼は日本人に牛が隠してある場所を教えてしまったので、日本人は村人が隠した牛を全部連れて行った。とてもたくさんの牛だった。村人たちにとって、牛はほんとうに貴重な財産だった。

(07年10月16日採録