張貴勤老人(88歳)の話

日本人が来たときはほんとうに恐ろしかった。昼だろうと夜だろうと村人はみな野山に逃げて隠れた。あの頃私にはすでにひとりの子供がいたが、逃げるときはつるで編んだ笊を提げて中に子供を入れた。平時は笊をカン(;土でできたオンドル式のベッド)の上に置いた。ひとたび情報が入るとすぐに子供を連れて逃げた。

私たちの村では毎日山の高いところに見張りを立て、その3つの山の上にそれぞれ箒をたてていた。馮家会や三交に駐屯していた日本兵が出発するとすぐに箒はゆらゆら揺れた。あの頃、村人は常に逃げる準備に忙しくて、ほんとうに可哀想だった。ときには真夜中ですら人々は家を出て隠れなければならなかった。

一度野原に隠れていたとき、山狩りをしていた日本人に見つかった。私たちは持っていた服や布団も全部捨てさせられた。私たちの身内のひとりの老人は歳のために速く歩けなかったが、日本人がやってきて「バンッ」と彼を一発殴った。私は子供を抱いて奥の方に隠れた。荷物を全部ほどいた。心の中では必要なものは持って行きたかったけれど、殴られたり殺されたりしなければ御の字だと思った。あぁ、7年間。まるまる7年間、私は隠れ続けた。最初に隠れたときは、私の最初の子はたった40日だった。最後に隠れたときは農暦の4月で、子供はすでに7歳になっていた。あぁ、まったく、なんていったらいいのか、言葉もない。

村人が蓄えた食べ物も全部野原に隠した。私の家では、屋根の上の方にあった崩れたヤオトンの中に隠し、食べるときはこっそり行って少しだけ持ち出し、それから枯れ草で足跡を消した。一度、崖の上にあった壕の中に隠れたことがあったが、中はとても広くて、たくさんの人が隠れていた。その中ですら日本軍が通り過ぎていく足音が聞こえた。馬のひずめの音もいななきも聞こえた。中にいた人は一言も声を出すことはなく、子供が泣き出さないように女たちは乳首で子供の唇をふさいだ。それでなかには、窒息死した子供すらいた。ときには山の上の洞窟に隠れて、20日以上も家に帰らなかった。子供が眠ってから大人たちはこっそり外に出て日本人を見た。彼らは山の下の南圪垜の河辺で馬に水を飲ませていた。夜、彼らは引き剥がした門や窓を河原に積んで火をつけた。炎は私たちが隠れている山の上を赤々と照らし出した。彼らは門を焼くときは、必ず同じ片側の扉を焼いた。だから帰ってきても、どこの家の門扉とも合わせることができなかった。村人に一対の門すら使わせなかった。

ある家では甕に漬物を漬けていたが、日本人が漬物石をどけて中に大便をし、再び石を元通りにした。主人はどうしてそれを知ることができただろう。帰ってきてそれを食べ続けた。ひと甕の酸菜を全部食べ終わってからようやく気がついた。なんてかわいそうなこと。まったく、日本人のすることはほんとうにひどかった。

この村で殺された人も少なくない。日本人がしゃべっている言葉がわからないだけで殺された。彼らはたくさんの牛や鶏を略奪した。私の夫は当時20数歳で、日本人が彼に牛を曳いて一緒に来いといったが、小便がしたいと偽って逃げてきた。ここから徴用された人も少なくないが、多くの人が帰ってこなかった。

女性を陵辱したのはいうまでもない。日本人と金皮隊(;日本軍に協力した漢奸)は棗岇村で、女性たちのズボンを脱がせて、「裸体会」を開いた。若い女性は隠れるときに老人が着る長い上着を着て、顔に煤を塗った。

夜には飛行機もやってきた。地上でもはっきり見えた。ほんとうに恐ろしかった。飛行機があり大砲があり、爆発音は鳴り響いた。ある春節、それぞれの家が年越しの餃子の準備をしているときに突然大砲の音が聞こえた。村人はびっくりして餃子を作るのをやめて逃げた。ほんとうに1年として安堵して過ごせた年はなかった。

(2008年6月2日採録