バスが走らない春節


10℃からさっぱり温度が上がらず、またまた離石に避寒しました。今年は特別に寒いようです。写真は、結露した水滴が即座につららになったもので、これは扉の内側です。

ビロウな話ですが、一番つらいのはトイレです。こちらのトイレは、穴掘って大きな甕を埋めるだけのものですから、当然部屋の中には造りません。庭の広い家は、庭に造ったりしますが、だいたいは門の外にあることが多いのです。ウチの場合も外にあります。ですからどの家でも、門に施錠してからは部屋の中に小さな甕を持ち込んで用を足します。私ももちろん当地の習慣に従っています。ところが小の方はそれでよくても、大となるとそうはいきません。

私はずっと胃が弱い人間なのですが、腸の方はすこぶる頑強で、こんだけアジア各地の屋台食を食いまくっているのにあたったこともなく、そもそも人生で下痢をしたことというのが、両手の指で十分に数えられるくらいなのです。その私がどういうことか2度ほど柔らかくなってしまったのですが、朝方のトイレで座り込んでいたときに、ついくらくらっときてしまい、これはヤバい、脳梗塞でも起こすんじゃないかと、あわてて(いえ、ゆっくりと)部屋に戻って1時間ほど横になっていました。それで生まれて初めてビオフェルミンという薬を飲んだのですが、よく効きますね、1包で楽になりました。ですが、こんな我慢も限界とばかりに、離石に逃れてきたわけです。

今日は14日ですが、明日が除夕(大晦日)、あさってが春節です。村から離石へ行くバスも走らなくなると思い、1週間ほど前に、何日まであるのか、バスの運転手3人に聞きました。3人とも口を揃えて、29日(農暦)までだというので、今日の10時半に村を出たのです。ところが招賢の街で待っていてもなかなかバスが来ません。招賢−離石のバスは6台ほどあって、それぞれが個人経営のバスです。それがほとんど1日2往復しているので、だいたい40分に1本くらいあるのですが、タイムテーブルというものはありません。1時間半ほど待ってようやくバスが離石から戻って来たのですが、そのバスはもう離石には行かない、仕事納めだというのです。

それは困った。もうホテルも予約してあるし、いずれにしろあの寒い部屋には戻りたくない。白タクをやっているシーピンは夜まで戻らないし、さてどうしようと考え惑っているとまた1台戻ってきました。乗客は4,5人程度で、途中で降りたとはいえ少ないなと思いました。けれどもその運転手は、離石に住んでいるのでこれから戻るというのです。やれやれ、なんとかなりました。


しかしその彼が、自分の春節の買い物に忙しくて、なかなか戻ってこないのです。どうやら爆竹なんかを買ってるみたいです。もう腹くくって待つほかないので、ただ黙って寒いバスの中で待ちました。ところが、乗客は他にも5人ほどいたのですが、その中のひとりのじいさんが、あろうことかこの写真の席でぷかぷかタバコを吸い出したのです。信じがたい無頓着さですが、このすぐ後ろに私は座っていたので、危険だから止めてくれといいました。中国では火薬爆発の事故がものすごく多いのですが、こんなところで巻き添えになりたくありませんからね。

その後にも、運転手がルート外の自分の実家に寄ったりして、けっきょくウチから離石のホテルまで、たかだか40数キロの距離を移動するのに6時間ほどかかりました。私はまた、今日が最後の稼ぎ時で、バスは休む間もないピストンで走っていると思っていたのです。それが大きな間違いであったというのが、そもそもタイトルの由来なのですが、長い長い前置きですみません。

私が乗ったバスが離石に行く間に、5台ほど招賢に向かうバスとすれ違いました。それが、ほとんどのバスが半分も席が埋まってない状態だったのです。つい最近まで、春節前のバスは土産を抱えて村に帰る人たちで満席が当たり前、(積載人数に厳しくなかった)もっと前までは、車両一杯限界まで詰め込み、帰郷する人たちの楽し気な熱気で、身動きもままならず、バスの中そのものがすでにして“春節”でした。それが今はガラガラで、個人経営の運転手が早々と仕事納めをしたがるのも無理はありません。

春節間際にバスに乗ったのは5年ぶりくらいだと思いますが、この激変ぶりに改めて中国の市民・農民生活の“発展”と“底上げ”を思い知らされました。町に出た村人たちの多くが、自分の車を持つようになったのです。賀家湾村でも、正確な数こそわかりませんが、だいたい半分くらいの家で、息子たちの誰かが車を持っている感じです。村一番の金持ちの家では、3人の息子がそれぞれマイカーを所有しています。トヨタとベンツとアウディです。

そしてもうひとつ、バスが走らなくなった理由は、そもそも子どもたちが帰郷しなくなったのです。以前ならとにかく、何が何でも春節には故郷に帰る。最後尾もままならない長い長い列に並んで、プラチナチケットを入手し、都会で稼いだ現金を後生大事に懐に抱きかかえて故郷の親のところに帰る。というのが、中国の“貧しい”農村部の輝かしくも切ない伝統でした。私が当地に暮らし始めた頃もそうでした。物売りのオート三輪以外、村で自家用車など1台も見たことはありませんでした。それがこの数年、しかも短い数年の間に激変したのです。子どもたちは、便利で豊かな都会の方で春節を迎えるようになり、親たちの方が(元気なうちは)、都会に出向くようになったのです。

たしかに、村はとても静かなのです。学齢前の子どもたちの声がときどき聞こえますが、若者たちが帰って来た気配はまったくありません。ただ、賀家湾村の場合、初五(春節から5日目)から唱劇が始まるので、それに合わせて村に帰ることが多く、もともと春節は割合に静かでしたが、それにしてもひっそりし過ぎです。それで他の村の様子を見てみようと、昨日、かつて1年ほど暮らしたことがある樊家山村に行ってきました。


村の入り口で紅い提灯を吊るしている人たちを見かけましたが、やっぱり村はひっそりとしていました。南京錠がかかっている門が多く、そもそも人が暮らしている気配があまりありません。


ここで暮らしていた老夫婦はおそらくすでに亡くなっているのでしょう、片方の部屋が崩れたままになっていました。顔見知りには3人出会いましたが、私が暮らしていた当時の仲良しのじいちゃんばあちゃんたちは、みな亡くなったようでした。もうあれから10年経っていますから、それも当然のことでしょうね、思えばほんとうに長くいたものです。この村は本来の人口が800人ほど、現住人口は100人ちょっとだそうです。




これらは一昨日賀家湾で撮ったもの。羊たちは元気そうでした。全身ウールですからね。