河底郷村へ行けなかった。

昨日、離石から相乗りTAXIで柳林という町まで行き、そこからバスに乗って三交という小さな町まで行ってきました。臨県にある三交とはまた別の町で、下三交ともいわれています。何のためにそこまで行ったかというと、対岸の陝西省にある河底郷村に行くつもりだったからです。

今を去る13年前、延安から北京に戻る夜行バスがガケ崩れで立ち往生し、救援バスが来るのを6時間ほど待って“救助”された乗客たちは、みなこの河底郷村の民家で一夜を過ごしたのです。翌朝他の乗客たちは、予定通りに北京へ向かい、私ひとりが、ガイドブックにあった磧口という名前を思い出して、河を渡ってからTAXIでその村に向かいました。つまり、今私がこの黄土高原のヤオトンに暮らしているすべての端緒は、ここから始まったことになります。


それでその時に撮った写真が何枚かあって、それを渡さなければ、渡さなければとずっと気になっていたのですが、なかなか機会がなく、なぜか今頃になって急に行って見ることにしたのです。すでに亡くなっている人、大人になって出稼ぎに出てしまった子、もしかしたら、嫁に出て、子どももいるかもしれない、ような長い長い時間が過ぎてしまいました。

あの頃は、河底郷村と対岸を結ぶ筏が出ていて、私もそれに乗ったのですが、バスの運転手に聞くと、それはもうなくなって、20分ほど下流の三交まで行かないと対岸に渡れないということで、三交までやってきたわけです。


この何でもないのっぺりした水の流れが、黄河です。磧口あたりからは、多分100キロ近く下流になります。昨日から今日の午前中にかけて、ずっと小雨が降っていました。


写真の左下に写っている、発動機付きの筏に乗って山西省陝西省を行き来するわけですが、今は、清明節が終わり、五一節といって、労働節からの連休を迎えるちょうど端境の時にあたって、人の移動がもっとも少ない時期です。

で、いくらあたりを見回しても、船頭さんがいないのです。どころか、誰もいないのです。その上に、筏に乗るためには河辺まで下りなければならないのですが、もう滑って滑って、どうしようもなく滑って、しかも途中に小さな川までできていて、そこを渡るためには膝下まで“濁流”につからなければならず、私はついにそこで“渡河”を断念したのです。10年来心の隅にひっかかり続けてきたことを、ようやく払しょくできると、心晴れ晴れ賀家湾村を出たのに、一晩の雨でオジャンになってしまいました。

それともうひとつ、バスの運転手や乗客が口を揃えるのは、「もうあの辺りに人は住んでないぞ」という寂しい言葉でした。渡し筏もなくなったということは、少なくとも以前より人口が減ったということでしょう。私が行った時は、村に小学校もあり、たくさんの子どもたちの写真も撮りました。その子たちの誰かは村に残っていて、きっと私のことを覚えていてくれるだろう、というのが、今回の訪問の一番の希望でしたが、この激変する中国社会にあって、13年というのは、あまりに長きに過ぎた時間だったようです。

もしかしたら、きっと届けるから、といった私の言葉を信じて待っていた年寄りもいたかも知れない、と思うと、もっと早くに来るべきだった、「日本人はやっぱり約束を守ってくれたね」と、この十年来、私が守り続けて来たたったひとつの“行動規範”を、この時にまで遡っておかねばならなかったと心が痛みました。

それでも、廃村になったと聞いたわけではないので、機会を見つけて、もう一度必ず行ってきます。