えっ?! と驚く“出し物”

しばらくネットが繋がらないところに行っていました。正確にいうと、繋がらないのではなく、繋がなかったのですが。どういうことかというと、新しく出た本を持って、磧口界隈の村を巡っていたのですが、これらの黄河に沿った辺りで無線ネットを繋ぐと、デバイスが陝西側の電波を拾ってしまうのです。私の契約は1か月使い放題で100元という料金ですが、これは山西省省内で使った場合です。省外の電波を使うと、つまり“市外料金”になってしまうので、あっという間に料金切れになってしまうのです。

それで話は白家坂に戻ります。私が行ったのは5月4日でした。ちょうど村で結婚式(嫁取り)があり、尋ねたい人もそれを見に行っているというので、私も人だかりがしている広場に行ってみました。お嫁さんを新郎の村の人たちにお披露目するというのが目的ですが、それはもうとてつもなく賑やかで華やかで、村人にとっては格好の“娯楽”です。

私が暮らす賀家湾は臨県の最南部にあり、中央部やや南寄りの白家坂とは、以前だったら車でも2時間以上の距離があります。5里違えば風俗習慣が違うとまでいわれるこのあたりですから、この結婚式の様子も細部でかなり違っていて興味深いものがありました。

私が広場に行ったときにちょうど新郎新婦の入場で、楽隊を先頭に賑やかに登場しました。その直後には、「傘頭秧歌」があって、この傘を持って歌うのが臨県の特色のようですが、歌はみな即興で、おめでたい歌を歌います。これは日本でいうと、昔私たちの地方にあった、「三河万歳」のような感じではないかと思います。で、なんだか騒がしいので振り向いてみると、こういうおっさんがいたんですね。


ウチにはテレビはないし、元々テレビは好きじゃないので私は看ませんが、おなじみの抗日ドラマの扮装です。左は新郎のお母さん。こんなものは初めて見ました。多分、“田舎”に行けば行くほど、こういった“出し物”は笑いがとれるはずで、村の演芸会なんかでは今でも定番じゃないかと思うのですが、考えてみると、磧口、招賢辺りはずっとずっと“都会”です。

都会度は何によって測るかというと、ここ呂梁地区では、離石にどれくらい近くて、バスが1日に何本あるかということになると思います。臨県の行政所在地は臨県ですが、ここは都市としては、離石の何十分の一かの規模で、やはり離石でないとダメなのです。離石は北京へ行く列車が通っているし、3年前には飛行場もでき、上海へもひとっ飛びとなりました。招賢からは1日に10本近くのバスが出ます。

ただ、話は飛びますが、なぜ招賢にそんなにバスが多いかというと、それは炭鉱があるからです。3000人近くの炭鉱労働者とその家族が頻繁に出入りするのですが、実は最近状況が変わって来ました。石炭がだぶついて、しばらく前から一か所の炭鉱が閉鎖中なのです。招賢の町のどんづまりにある炭鉱で、それでこれまでは石炭運搬車が町中を占領していたのですが、いくらか空気はきれいになりました。しかし、商店は売り上げがガクンと落ちたことでしょう。バスのお客さんもめっきり減ったのです。



話を戻しますが、この人は多分、新郎のおじさんくらいに当たる人だと思います。「若い娘、若い娘。。。」といいながら周りの女性を追いかけ、そのたびに歓声と嬌声があがっていました。情けない限りですが、10年もいれば慣れっこになってしまって、もう笑うより仕方ないです。おっさんたちは、まさか私が当の日本人だとは思いもよらず、いろいろポーズをとってくれました。

ただし、私がえっ?!と驚いたのは、こんなことではないのです。


これはぜひ動画でお見せしたいのですが、えっ!?どころか、え〜〜〜〜っ!!!!と驚く、仰天モノの“儀式”でした。賀家湾界隈ではこういうのはありません。輿(簡素化されていますが、紅いコーリャンに出てくるアレ)の中で“日本兵”の膝の上に新婦がまたがっていますが、もうそのものズバリのポーズですね。左に写っているのが新郎で、右側、写っていませんが、紅い帯を引っ張るのは、新郎のお母さんです。向こう側にもう一台輿がありますが、これにどういう人がのっているのかは聞き損ねました。(紅い帯をお母さんが曳いていますが、この家はもしかしたらお父さんがいないのではないかと思います。それらしき人を見かけませんでした。本来は新郎の父親が曳くと思います。)

そしてこれを、周りが囃し立て、“日本兵”と新婦が抱き合って、ユラユラどころか、激しく上下に揺らすのです。日本の“良家のお嬢様”なら赤面して目のやり場に困ることでしょうが、こっちではおおっぴらで、わいわいきゃーきゃーものすごく盛り上がるのです。私もびっくりしました。もちろん赤面などしなくて、最前列でポケカメ動画を撮ってきましたが。

この時に思い出したのですが、10年ほど前に、磧口で当時90歳だったおばあちゃんを取材したことがあります。西湾といって、日本軍が駐屯していた村なので、被害は甚大だったはずですが、そういうことはほとんど口にせず、「人が生きているのは子どものため。子どもを産んで育てて、歳をとって子や孫に面倒を見てもらう。こうして人の一生がまた人の一生になって続いてゆく」といっていたのが印象に残っています。

中国でも、大都市では結婚しない人、子どもを望まない人が増えていると、話題にはなりますが、農村部ではまだまだ従来の価値観は微動だにせず、適齢期が来たら、早く嫁に出すこと、早く嫁をもらうことが至上命令です。(男性が)結婚することを、中国語では「成家」といいます。「ウチの息子は30にもなるのにまだ成家していない」といった感じです。

成家して子を産み、家族のために一生懸命働いて、老いては子に従い、孫が成長して葬儀を取り仕切れるくらいになるまで生き、そして紅い帽子を被ったひ孫たちに送られて、静かに土に還ってゆく。その間には、自然災害も病気も戦争もあるけれど、とにかく自分の家族を守り抜いて一生を終える。これこそが“人の道”なのです。

白家坂で見た光景は、新郎新婦が、いわばこの“人の道”のスタート地点に立ったということを確認する儀式ともいえ、それを村人たちすべてが共有して喜び祝うというところに、私は“中華民族”の凄さを思ったのです。