張烈文老人の話

一昨日、白家坂(bai jia ban)という村に行ってきました。実に6年ぶりです。ここは臨県の中央部の山の中にあって、最南部の招賢鎮からだときわめて不便なところで、なかなか再訪ができませんでした。6年前に行ったときも民家に1泊泊まりです。今回ようやく都合がついて、村人のバイクで送ってもらいました。

ところが、おどろいたことに、ものすごく立派な舗装道路が開通していて、しかもおそらくはできたばかり。路面もまっさらで、1時間ちょっとで到着してしまいました。ここでは5人の老人から話を聞いています。

まっさきに、張烈文老人を訪ねました。理由があるのです。

以前にも何度か書いていますが、私が話を聞いている、ここ臨県の言葉は、晋語の中の「臨県語」と分類される言葉です。これがとにかく特別に方言がきつく、一般の中国人でも、最初は8割が聞き取れないといいます。ですから、私が直接取材している最中は、もとより高齢の人ばかりですし、実はほとんど聞き取れていないのです、正直いって。それを当地出身の大学生などに“翻訳”してもらい、それを見て、なるほど、あの時はこんなこと言ってたのか、と理解できる次第なのです。


この烈文じいちゃんの場合も、後になってわかったことがあって、どうしてもそれを確かめたい。もう一度会いたい。亡くなっている可能性もあるわけだから、それでまっさきに訪問したのです。じいちゃんは目と耳がかなり悪くなっているとはいえ健在で、私のこともよく覚えていました。以下、6年前に聞いた張烈文老人の話の一部です。( )内は私の注釈。
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日本人が来たとき、私たちの家の土ヤオトンの門と窓を焼いた。門を焼き、窓を焼いた(注;ヤオトンの場合、門と窓枠だけが木部で、必ずそこを焼き、またそれで煮炊きをした)。大きな鍋を運んできて、マキを積み上げ、飯を炊いて食べていた。1頭のオス牛のモモ肉を切り取って食べてから、庭のムロ(注;深さ3mほどの穴を掘って、野菜を保存する)に放り込んだ。私たちが帰ってみると牛の姿が見えず、あとでムロから引き出した。

この村では殺人はなかったが、日本人に追いかけられて逃げる時に崖の上から転がり落ちてひとり死んだ。この人はたぶん三順(注;人名)だろう。日本人がいなくなってから見ると、彼の腕の下に拾った紅い枕(注;亡くなってから埋葬までの間、棺の上に置かれる枕)がはさまれていた。

私が覚えているのは、とにかく洞窟に隠れたことだ。あの頃は、追いかけられて洞窟に隠れるだけの暮らしだった。大人たちについて山の畑に行って隠れた。私の家の老人が織った絹布が谷の方に隠してあったが、gen pi 隊(注;日本人に協力した中国人。当地のいわば“ごろつき”)が連れてきた日本人がみな持って行った。銀器(注;財産として、特に女性はみな銀の腕輪をしている)も。これらのことはみな覚えている。私の叔母のも持って行った。打ち壊された甕は今でも上のヤオトンの中にある。みな針金で縛ってくっつけた。甕の蓋もみなたたき壊された。穀物と土とをごちゃまぜにし(注;村人が食べられないように)、食べ残した飯も、土の中に放り込んだ。

日本人は牛肉を食べていた。使った小さな空き缶は、今でも粟をすくうのに使っている。小さな丸い容器だ。
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昨日のクイズの答えは、最後の1行です。日本人が牛肉の缶詰を食べていたという話は、何人かから聞いていて、それをもらって食べたという話も3人ほどから聞きました。当地では、ましてあの時代では、肉を食べる習慣はなく、牛は大切な耕作牛で、この牛と鶏を略奪された、庭で殺して食べていたという話はもう、100人くらいから聞いています。食糧を“現地調達”していたわけですね。

ここでは缶詰を食べていたわけではなく、じいちゃんの家の牛を食べていたわけです。この空き缶には缶切りで開けた痕がないので、缶詰ではなく、蓋付の容器で、食器代わりに使って捨てて行ったのでしょう。私が、くれない?と聞いたら、いいよいいよ、ウチでは何の価値もないものだから。といって、おまけに家にあったお菓子の袋まで持たせようとするので、もちろんこれは断りましたが、この歴史の波風をかいくぐって生きながらえた小さな空き缶を、この先どう使おうか考えているところです。