老道外

先月18日に北京から戻り、さて本題に入ろうと思っていた矢先、目の前に忽然と現れた子犬のために何日も時間をとられ、なんだか書きそびれてしまったのですが、北京から戻る前、私は何をしていたかというと、ハルビンに行っていたのです。

731の事務局に行って、資料をもらったり、偶然遭遇した2組の日本人グループと接触したりで、いろいろあったのですが、ここには書きづらいこともあり、時間もたってしまったので、思い切って割愛します。


で、ハルビンで私はとても興味深いところを見つけたのです。特に行きたいところもなかった私に、中国人の友人が「古い街並みが残っているところがあるけど、ほんとうにボロボロで……」、行っても何もないよ、といった口ぶりで教えてくれたのが、「道外」(dao wai)という地域でした。私もさして期待もせず、「そこは通れないよ」という声を背に、大工事中の架線の下をほこりまみれになって潜り抜け、目当てをつけた方向に30分くらいぶらぶら歩いて行くと、ありました。私好みの古ぼけた“庶民的”な汚い街筋が。




これは後日ネットで知ったことですが、道外(ダオワイ)の「道」というのはロシアが施設した東清鉄道、後に南満州鉄道となる鉄道のことで、その線路の外側、実際には東側の地域のことをさす地域名です。現在も道外区という広い行政区ですが、そのうちの松花江に近い狭い部分が、かつて繁栄を極めた「道外」です。そのまた中心部ではいま観光開発も始まっていて、壊れかかった建物が修復され、それっぽいレストランも営業し、きらびやかな標識には「老道外」と書かれていました。「懐かしの道外」といった感じでしょうか。

この地域は、すでに12世紀の初頭に軍の糧秣基地として名があがっているのですが、18世紀中ごろ、山東省からの移民によって村が形成されたようです。当時は主に生活物資の売買および物資を中継する商業地として栄えたのですが、その僻村に天地がひっくり返るような大変革をもたらしたのは、1901年、ロシアによって松花江に鉄橋が建造されたことでした。その後も鉄道建設は続き、ハルビン満州里、ハルビンー綏芬河、ハルビンー大連の3路線が開通するにあたって、道外(正式に「道外」という地名で呼ばれるようになったのは1905年から)は一躍商工業物流の中心地として、猛スピードで近代化がはかられていったわけです。鉄道建設に徴用された労働者はおよそ17万人、建設後にこの地に残った人がおよそ10000人で、その他の流入と合わせて、建設前の数百人から、一気に25000人の人口に膨れ上がったようです。

この急激な人口増加の重要な原因は、この道外が、東清鉄道の「附属地」から除外されていたことで、「道里」にロシア人と混住していた中国人が雪崩打って道外に流入して、ここでまた新たな商売を始め、ますます道外は繁栄の一途をたどることになるのです。

街の中央を東西に走る2キロほどの「靖宇街」というのがメインストリートで、この道の両側にいまも往時の繁栄を忍ばせる立派な建物がたくさん残っています。ハルビンなので、一見ロシア建築かと思ったのですが、これらはすべて中国人の手になる“中華バロック”と呼ばれる建築様式だそうです。えいやっと、一気にアップします。