そして誰もいなくなる?

当地での晋劇公演というのは、3日間連続で昼夜6公演、ひとつの公演でだいたい2つの出し物があり、1公演で3〜4時間という長丁場です。ですからずっと観続けるわけではなく、出たり入ったりしながら、おしゃべりをしたり、集まって食事や飲み会が始まったりと、いわばこの3日間で、村を離れた者たち、あるいは親戚の者たちが一堂に会して旧交を温め、親族の絆を深め合い、今年の豊作と安全を祈るという催しなのです。

今日は樊家山の公演の最終日。日曜日でもあり、けっこう賑わっているのではないかと思って、なつめと共に出かけました。カメラ・ビデオ・ICコーダーのフルセットです。

ところが、30分ほど歩いて劇台(舞台)に着くと、そこにいたのは、ほんの10人ほどの、見知った顔の老人たちだけだったのです。「ひさしぶりですねぇ」「お元気ですか?」と、笑って声をかけはしたものの、あまりの寂れように愕然とするばかりで、「夜は賑やかなの?」と聞いても「いいや、こんなもんだよ」という答えが返ってくるばかりでした。

私が樊家山に住んでいたころは、いろいろ条件が整っていたこともあって(2人の標準語を話す中国人と同じ棟で暮らしていた)、次から次へと村々を渡り歩く晋劇のハシゴまでしたものでした。どこへ行っても100人は超える観客が舞台を見上げ、周辺には何軒か屋台も出、若い衆は1杯飲みながら、女性たちはちょっと着飾って、老人たちもハレの日の笑顔で、幼な子たちが駄菓子を手にはしゃぎまわるのを見守っていたものでした。村全体がウキウキした“お祭り”だったのです。

樊家山という村は、以前は賀家湾よりもずっと盛っていた村で、だからこそ、2002年に希望工程の支援で立派な小学校ができ、近隣の村々からも寄宿生が集まってきていたのです。しかし、大勢の流れの中でどんどん過疎化が進み、1年ほど前には、1日に1本だけあったバスもなくなりました。(樊家山→招賢 徒歩1時間、賀家湾→招賢 徒歩30分)。ついで小学校もなくなり、そうなると、学齢期の子どもを持つ若い夫婦は、ますます町に出ざるを得なくなり、もともと村に産業があるわけでなし、過疎化には歯止めがきかなくなっているのです。

私が樊家山で取材した8人のうち、すでに5人が亡くなっていますが、ひとりが亡くなると、残された連れ合いは、子どもたちのところに行ってしまうケースが多いのです。老人たちが村に居ればこそ、春節や晋劇のときには若い人たちも村に戻ってくるでしょうが、今はもう、戻るべき家が無くなりつつあるのです。現在村で暮らしている老人たちが亡くなれば、この村の長かった歴史も、やがて静かに、音もなく閉じられてゆくのでしょうか?

樊家山には炭鉱があり、昨年、子どもを含むすべての村人に、一人当たり3000元の補償金が出たそうです。おそらくはそのことと無縁ではないのでしょう、劇台から離れた一角で壮年の男たちが集まってバクチをしていました。普段賀家湾で見る、ほんの娯楽としての1元単位のバクチとは違い、飛び交っていたのは100元札でした。私が見知った顔はひとつもなく、恐らくは他の村から集まって来た男たちでしょう。覗き込もうとした私に、鋭い視線が返って来ました。ヤオトンの屋根の上からその光景を見下ろしながら、やはりこの村もあまり長くはないのではないかという思いに駆られ、帰路は、けっきょく一度も開くことのなかったカメラバックがずっしりと背中にこたえました。
(写真はすべて、今からちょうど5年前、小張家坡という村の晋劇公演のようすです。)