“朝鮮姑娘”の部屋

今回臨県経由になったのは、パスポートを更新したために番号が変わり、それを公安局に登録に行くためでした。ただし、担当者もすでに顔見知り(なんと、彼のおじいさんの葬儀の写真を撮っている)なので、手続きはわずか3分で済みました。

その後、帰国前に出しておいた写真を受け取り、それを持って三交に向かいました。バスで30分と、しごく便利なところであり、今後の活動の予定などたてたかったからです。

樊ばあちゃんは、なんだか私がとても気に入ってくれたようで、今回もあれこれ歓待してくれ、先回やや緊張した面持ちで私を見送ってくれた李じいちゃんは、竈のふいごを引いている最中で、珍しがってカメラを向ける私にポーズまでとってくれました。ふたりが写真を喜んでくれたのはいうまでもありません。

私は例の“朝鮮姑娘”の部屋が気になっていたので、再度案内してもらいました。もしかして気難しいような人だったら、事情が事情なだけに、取材などしずらいだろうなぁと、ちょっと心配していたのですが、会ってみると、気さくどころか、どちらかというと“がらっぱち”系のばあちゃん(写真右端)で、まったくの初対面なのに、大鍋の中のマージャン豆という、この日に作る特別料理を、どんぶりにてんこ盛りされて、もう胸がむかつくほど食べさせられました。いらない、といくら断っても、まったく通用しないのです。

任ばあちゃんは今年75歳で、18歳で結婚してこの家に住むようになったそうです。つまり、1955年頃ここにやって来たわけで、その時にすでにこの家には、亡くなったお連れ合いが住んでいたことになります。その彼が、いつからどういう経緯でここに住むようになったのかまでは、今回は聞けませんでしたが、他にも事情を記憶している人は多そうなので、あらためて取り組んでみたいと考えています。

そしてちょうどその夜のネットニュースで、那覇市にある、かつての日本軍司令部の壕の説明板から、「壕内に“慰安婦”がいた」と「軍による住民の虐殺があった」という2ヵ所が削除されることが決まったという記事を目にしました。「確たる証拠となる資料も文献もないから」だそうです。

つい数時間前に私自身が何人かから聞いた、「日本人が連れてきた朝鮮姑娘」のことも、「確たる証拠となる資料も文献もない」から、歴史上なかったこととし、やがて村人たちの記憶は闇に葬られるのでしょうか?いえ、だからこそ今、私はしばらく三交に住んで、老人たちの記憶を聞き取ることを考えています。