『黄土地上来了日本人』

こちらもご紹介が遅くなりましたが、私の本は、3月30日に「東京大学東洋文化研究所附属東洋学研究情報センター」という長たらしい名前のところから刊行されました。700部作って、そのうちの500部ほどが国内外の図書館、大学、個人等に寄贈されます。私には100冊ほどいただけるようです。

先々週、そのうちの19冊を北京で受け取り、2冊を手元に残して、今は残りの17冊を配っているところです。まずは賀家湾の村長さん(彼の暗黙の了解がなければ、ここには住めなかった)、前に住んでいた部屋の大家さん(2年間タダで住ませてもらったし、お母さんを取材している)、薛老師(これから一緒に暮らすわけだし、お母さんを取材している)、賀登科老人の息子(老人には3回取材し、もっとも多くを語ってもらった)に4冊を配ったのですが、すぐに別の3人がやってきました。いわく「ウチのオヤジは字が読めるからくれ」「前書きを読んで感動して涙が出たから欲しい」「死んだ父親の写真がないので、かわりに残したい」。

私としても当然“優先順位”というものがあったのですが、のっけから崩れてしまいました。それで、残しておけばまた誰か取りに来るので、さっさと配ってしまうことにして、連日、六六という以前取材のときに手伝ってくれた樊家山の青年を頼んで1日に1、2冊づつ持って、近場の村を訪ねました。六六は今も炭鉱で働いていて、夕方4時に仕事が終わるので、5時に村を出ます。今は7時過ぎまで明るいのでそれで十分ですし、そもそも日中外出したら確実に日射病になります。

字が読めない人がほとんどですが、自分の写真が載っているし、知り合いの写真も多いので、みなほんとうに喜んで、しげしげと見入ってくれます。そもそも“印刷物”などほとんど目にすることのない地域ですから、彼らにとっては貴重な“記念品”となることでしょう。この本を実はほんとうに必要としているのは、例えば当時の歴史を研究している人たちかも知れませんが、それはいずれネット上で公開するので、とにかく本は、取材した老人たちに手渡したいと思っています。

8日に宋家ガドゥオという村に行きました。この村はそんなに遠くはないのですが、山の上にあってものすごい悪路のため、3年半前に行って以来一度も行ったことがない村です。久しぶりに会った宋芝榮老人は私のことをよく覚えていましたが、風貌がすっかり老けていて、あぁ歳をとったなぁとしみじみ思いました。この地で3年半というのは、日本でいうなら、たっぷり5年分くらいは経っているので、元気なうちに手渡せてよかったという思いです。

そこに84歳の元八路軍兵士がいるというので、久しぶりに取材に訪れました。残念ながら、すでにほんの断片的な記憶しか聞き取れませんでしたが、老人の頭に深く刻まれた傷跡は、太原で残留日本兵と戦ったときに、銃剣で切りつけられたものだそうです。“蟻の兵隊”の奥村さんが最近亡くなられたというニュースをネットで見ましたが、60年以上前の過去が、こんなところにも生々しく生き続けていることに、あらためて心を打たれて帰ってきました。

なお、今回出したものは、ページ制限があるため、全体の2/3強です。それで、この先の追加分を含めて、来年度にはもう1冊刊行される予定で、私の取材活動は、まだまだ続くことになります。近隣の村々はもうほとんどすべて取材しつくしているので、ツテをたどって、これまでとは違う村に行ってみたいと考えています。証言者たちがどんどん亡くなってゆくので、正真正銘“追っかけ取材”になります。

(6月11日)