哀悼 孫引喜老人

私が村を留守にしていた先月27日、ひとりの老人が亡くなりました。孫引喜という今年80歳の男性です。彼は、この村の壕で273人が窒息死させられた事件の、いわば最後の生き証人でした。
1943年旧暦12月、壕に逃げ込んだ民兵の姿を見た日本軍が、壕の入り口を包囲して「出て来い!」と叫んだのですが、出れば殺されると思っている村人たちは出てくるはずはありません。それでも、年寄りと乳飲み子を抱えた女性と11歳だった孫引喜など7、8人が壕から出たそうです。一緒に隠れたお兄さんが出るなと引きとめたけれど、同じ死ぬのなら外の方がいいと振り切って外に出たそうです。壕に残った24歳の兄と10歳の妹は亡くなりました。
彼を最初に取材したのは2007年の秋でした。その時はあまり多くを語りませんでしたが、ちょっとクセのある感じの人で、「お前たち日本人のことなんか、俺は信用しないぞ‥‥」といったオーラが自ずと滲み出ているような風情で、話し終わるとさっさと姿を消してしまいました。
その後私は賀家湾に住むようになり、彼ともときどき顔を合わせることになるのですが、やはり村人の中でもやや特異な存在で、あまり部屋を出ることもなく、男たちの最大の娯楽であるトランプ賭博の輪の中に彼の姿を見ることはありませんでした。
これは後から聞いたことですが、彼は若いころに離婚し、その後ずっとひとり暮らしで、国から年間1400元ほどの生活保護を受けて生活していたようです。1か月1500円くらいということです。で、そのお金はおそらくたばこ代だけでほとんどすべてが無くなってしまうだろうと思われるほどたばこ好きで、私もときどき珍しいたばこが手に入ると彼のところに届けたものでした。
その彼が、2度目の2009年に取材したとき、興味深いことをいっていて、風邪をひどくこじらせて寝込んでいたときに、日本人の従軍医師に救けてもらったというのです。ところがこの話は、実は磧口の白宝有という人の話とよく似ているのです。白老人の話は近隣では有名で、数人の老人たちが口にしたし、彼自身も事細かによく記憶していて、これは間違いなくほんとうにあった話だと思います。ところが、孫老人の場合は、いまいちあいまいなところがあったのです。
それで私は、いつかそのことをもう一度彼に聞いてみたいと思っていました。ただしそれには通訳が必要だし、目と鼻の先に住んでいるのだからそのうちに、と考えていた矢先にこういう事態になってしまったのです。
私は、もしかしたら彼は、同じ村に引越してきてしょっちゅう顔を合わせる間に心が打ち解けてきて、私のために“ウソ”を語ったのではないかと思っているのです。もちろん、そういう日本人が複数いたって何の不思議もないし、もしかしたら、この従軍医師というのは同一人物ということもありえますが、この真偽を確かめることはついにかないませんでした。
孫老人の死因は、寝たばこが燃え移っての焼死。子どもがいなかったため葬儀は執り行われず、ひっそりと山の畑に葬られたそうです。おそらくはこれで、“賀家湾事件”について自らの体験から語れる人はすべていなくなりました。

老人が暮らしていたヤオトン。窓からのぞいてみると、つい今しがたまで人が暮らしていたごとく、身の回り品がそのまま放置されていました。壁には真新しい額に入った、私が撮った写真が飾られていましたが、果たしてこの部屋の鍵を再び開けることがあるのかどうか?孤独だった彼の人生のせめてもの証である“証言集”を届けられなかったことが、返す返すも残念でなりません。

(3月16日)