曹老人のこと

ようやくにして曹老人から聞き取りをすることができました。曹老人のことはずいぶん前に書いたことがあるのですが、もうこのブログを読んでくださっている方も変わっていると思いますので、もう一度。(351回書いた過去ログは、操作ミスからきれいさっぱり消えました)

昨年の3月、当時樊家山に住んでいた私は、村の若者たちと一緒に高家塔という村まで「晋劇」を観に行きました。晋劇というのは、いわゆる山西版「京劇」で、この時期に村人たちで劇団を呼んで開催され、普通は3日間行われます。小さな屋台が出たり、他の村々に嫁いだ娘たちや出稼ぎに行った息子たちが帰ってきて、家族や友人たちで団欒を囲み、とりわけ老人たちにとっては楽しみな日々です。そしてこれが終わると、高原の段々畑に農民たちの姿が見られるようになります。

私もある人の家でお相伴に預かっていると、この村に昔日本人に腕を切り落とされた老人がいる、という話を聞いたので、さっそく訪ねてみることにしました。左袖がむなしく垂れ下がった曹老人の姿はすぐにみつかりましたが、私が取材を申し込むと、彼は「日本人に話すことは何もない。写真も撮られたくない」といって、さっさと奥に引っ込んでしまったのです。まさに取り付く島もありませんでした。私は何のアポもなく突然訪れた非礼を詫びたい気持ちでしたが、おばあちゃんの方はくったくがなく、写真が欲しいというのでシャッターを押しました。そしてすぐにそこを辞そうとすると、おばあちゃんがどんぶりいっぱいの紅棗を持って来て、「持っていけ」「いえ、けっこうです」が何度も繰り返されたのですが、そこへ突然曹老人がやってきて、何もいわずに私の手提げ袋の中にその紅棗をざざーっと入れたのです。一瞬のことでした。

そこで私は不覚にもぽろぽろっと涙を流してしまったのです。60数年ぶりに思いもかけず日本人に会って、永遠に消えることはないであろう左腕の痛みと、はるばる遠くから自分を訪ねてきた客人に対するこの地の“もてなし”との間で、彼の心はきっと炎と燃え上がる葛藤に苛まれたことでしょう。しかし最後にはこの地の風習に従ったのです。モノで豊かさが計れないというのは百も承知の上でなお、私たちの日常からは想像を絶するほどにビンボーで不便なこの村で、彼らの“もてなし”が唯一“心”でしかあり得ないことに、私はそのときむしろ哀しみを覚えて泣いたのです。

そして数日後、バイクで高家塔の隣村へ行く途中、向こうからオート三輪の助手席に乗っている曹老人とばったり出会いました。私たちはほとんど同時に車から降りて近づき、ごく自然に握手をかわしました。曹老人はニコニコ笑いながら、「帰りに寄ってウチに泊まっていきなさい」といったのです。

その後2回彼を訪ねたのですが、折悪しく不在で、その後は機会もなく、今回ようやく1年8ヵ月ぶりに再会できました。

曹夫妻は私の訪問をとても喜んでくれて、まずはお腹がすいたでしょうとインスタントラーメンを作ってくれました。いくら断っても、これも当地の風習で、客人には粟粥とか麺など、まずは食べるものを出すのです。インスタントラーメンはご馳走ではないにしても、客人に出して喜ばれる、“ハイカラ”な食べ物のうちです。

聞き取りの内容に関しては、標準語への翻訳を待たないと私にもわかりません。ただ、彼が左腕を失くしたのは、嵐県という北の方の戦場で、日本軍と白兵戦の上、刀で切り落とされたということはわかりました。同時に足も切られたそうですが、ほんとうによく生きて帰って来られたなと思います。当時のこととて、医療も未発達、戦場で一兵卒が斃れたところで、状況によっては顧みられることもなく、むなしく野に屍を晒したとしてもまったく不思議はありません。そして、その白兵戦で睨み合ったにっくき日本兵の次に出会った日本人が私だったのです。この広大な中国で、そして60数年もの時を経て、こういう人たちと出会える不思議な縁を思わずにはいられません。

私はこの3年ほどの間に260人を越える老人たちから話を聞きました。彼らのほとんどが、たとえ最初はいくらかのわだかまりを見せたとしても、最後には必ずといっていいほど、「ほんとうに遠いところをよく来てくれた」と暖かく迎えてくれました。酷熱極寒の過酷な環境を生き抜いてきた老人たちにとって、あえて誤解を恐れずにいうならば、消えることのない戦争の傷跡の痛みをもこえて客人をもてなす“心”のありようは、古来よりこの地に連綿として引き継がれてきた“風習”ではないかと、私は思っています。

(11月23日)