過る思い



私はいま、ベトナムサイゴン、旧大統領官邸正面入り口の門の前に立っています。というのはウソですが、きのう行ってきました。10日午後、生徒たちはダナンから羽田行きのフライトで帰国し、私はホーチミンに到着しました。翌日はホテルで休養に務め、12日にホテルからブラブラ歩いて出かけました。−20℃の村を出てから上海→南寧→ハノイ→ダナン→ホーチミンと、ひたすら南下を続けているわけですが、今やもう半袖シャツ一枚でも汗がしたたり落ちます。
旧大統領官邸は、現在は統一会堂と呼ばれて、一般に開放されています(入場料150円。ちなみにベトナムは施設の入場料が安くて嬉しいです)。ウィークデイだったせいでしょうか、訪れていたのは、ほとんどが外国人観光客ばかりで、半数くらいが韓国人、ついで(おそらくは)フランス人、アジア系の人たち。アメリカ人とおぼしき人たちはあまり見かけず、なぜか日本人にはひとりも会いませんでした。


このブログをご覧になっていただいている方々の中には、この写真に見覚えのある方が多いのではないでしょうか?1975年4月30日午前11時過ぎ、ベトナム民主共和国北ベトナム)軍の戦車が、南ベトナムの大統領官邸に突入した瞬間です。



この写真は内側から撮ったものですが、傍に立っていた軍服を着た若者に聞いてみると、75年以降なんら手を加えていないそうです。やや窪んだ敷石も当時のままだそうで、思えばあれからまだ(!?)40年しか経っていません。まだ生まれていなかった私にとって、いくら老人たちの生の記憶を聞き集めたとしても、日中戦争は如何せんリアリティを欠きますが、比べてベトナム戦争は自分たちがもっとも多感だった時期に出遭った戦争でした。あの“有名な”門の前に立ち、さまざまに過る思いはあり、観光客がゾロゾロと行き交う中、私はずいぶん長い間門の前に立っていました。



官邸の内部は、ほとんどの部屋が開放されていて間近に見学することができます。ベトナムは漆の伝統工芸が盛んで、壁からテーブル、イスまで漆で塗り固められた一室は、目を見張る豪華さでした(写真ではよくわかりませんが、凄かったです)。マダムヌーの部屋もありましたが、これは意外に質素でした。これらの部屋で、当時の南ベトナム政権の中枢と米政権の顧問団とで、日夜秘密会議が開催されたことでしょう。説明文(ベトナム語、英語、仏語)があまりに少なかったのですが、ベトナム人にとっては、子どもたちも含めて、誰もが知り尽くしている現代史の一コマなんでしょうか?その他の博物館等を含めて、ベトナムではまだまだ“博物館学”的要素(誰に何をどのように見せるかというコンセプト)が未発達であると感じました。


何枚かの写真が展示されていましたが、これは“突入後”の一枚です。キャプションには、「○○コマンダーと彼の3人の兵士」とだけ書いてありました。どの人がコマンダーなのか気になって、私はデジカメで撮って、ホテルに戻ってから、フロントの若者に聞いてみました。彼は、なぜ私がそんなことに関心があるのかといぶかしそうに聞くので、当時日本ではベトナム戦争に反対する若者と一般市民の活動が大きな広がりを持ち、私もその中のひとりだった、というと、そうかそうかと、嬉しそうな表情になり、さっそくGoogleで調べてくれました(つまり彼も知らなかった)。
コマンダーはボイ・ウェン・ハンという右端の人で、1948年生まれ。すでに亡くなっているそうですが、私よりも1歳年下です。私たちが“熱気にとりつかれて”いた頃、かの地では、まったく同年代の若者たちが、まさに命をかけて闘っていたんだなぁと改めて思いいたりました。拡大してみると、このコマンダーは靴を履いていないのがおわかりになると思います。


こんな“老兵”も見学に来ていました。私が日本人だというと、気さくに写真撮影に応じてくれましたが、日本はベトナムには直接派兵していないので(もちろんその他の米軍協力は多々)、ベトナムでは日本人を嫌う人はあまりいないようです。“三光作戦の村”に10年暮らす私にとって、いかにこの地が“快適”か、ご想像いただけるかと思います。


突入時のソ連製戦車は、この旧大統領官邸の庭にも展示されていますが、実はそれはレプリカで、本物の方は首都であるハノイの軍事博物館の入り口右側に展示されています。国宝に指定されているそうです。この写真は12月7日に撮った本物の方です。