撫順 その1

職場からの依頼で、6人グループの小旅行のお供をしていました。そして同時に撫順の“下見”に行っていました。ウチの高校の年に一度の研修旅行のメインポイントを、瀋陽から撫順にシフトさせたいという思いがあるからです。瀋陽はとにかく巨大すぎるし、もうどんどんどんどん開発が目にも留まらぬスピードで進んで、旧“満州”時代の遺構など、中山広場のまわりに一部分残っているだけです。

大和ホテル、横浜正金銀行奉天警察署などがありますが、そのどれもが堅牢で立派すぎて、なんていうか、まさに博物館の巨大陳列品を見ているようで、当時、そこに存在していたであろう、人間たちへのイメージがおよそわかないように思うのです。

それで、3日午後撫順に向かいました。当時3万人いたといわれる満鉄社員たちが住んでいた住宅が、まだどこかに残っているのではないかという期待をかけて。

不思議ですね、天は私に味方しました。まったく偶然拾ったタクシーの運転手の于さんが、実によく知っていたのです。彼はまだ40歳なのですが、おもしろい経歴の持ち主で、かつて6年間武警(機動隊)にいたのですが、そもそも武警は、そういった日本の侵略の歴史について学ぶことが多い上に、とりわけ彼がいた部隊の上司が、そういうことばっかりやっていたのだそうです。辞めてから(ちなみに、人民解放軍共々当時は給料はナシ)、あちこち行商のような仕事を始め、お金を貯めて、SUZUKIの乗用車を購入して、個人タクシーを始めたんだそうです。

けっきょく2日間、半日ずつ、ずっと彼と一緒でした。以下、ネットで拾った、“満州”時代の写真と並べてみます。

1930年代に造られた撫順駅。現在工事中で、目隠しがされていて外からあまり見えないのですが、ちょうどホテルが近かったので、夜、隙間から中に侵入して撮ってきました。于さんの話によると、この建物を残すかどうかで、住民たちの間でいろいろ議論があったようです。政府としては高層ビルに立て替えたかったらしいのですが、住民の半分が反対して、そのまま残されることになりました。この旧駅舎の右手に新しい撫順(南)駅が完成間近です。後方の高層ビル群にご注目!

すでに新市街地に撫順北駅が完成し、現在はそちらが使われています。瀋陽までは1時間ほど、速い列車では45分で、通勤圏に入ったことになります。

取り壊しを反対したのは、いわゆる「侵略の歴史を忘れないために」という、教育的見地からなのかと聞いてみると、意外なことに、そういうことではなく、自分たちが長く使ってきた、撫順のシンボル的な駅舎なのだから、壊さないで欲しいということだったそうです。

撫順駅からまっすぐに中央大街(現在も名称は当時のまま)が延びていて、その両側に中心的な建物がずらっと並んでいたようです。これは、駅から300メートルくらい下がった位置にある「撫順炭鉱事務所」。今は民間の石炭会社の事務所になっていて、門の外から写真を撮っていたら、守衛に睨まれました。夏が近づくと、建物全体が蔦に覆われて美しいそうです。

この炭鉱事務所の真正面にある壮大な建造物が、1907年に建てられた、かつての「満鉄病院」。現在は右側半分が大々的に立て替えられて、遼寧省でも一二を争う撫順鉱務局総合病院となっています。
左側の部分はそのまま残されていて、その裏手の方にも、耳鼻科とか、職員食堂などがあり、現在も使われています。

おそらくは当時のものでしょう。大理石のナース像が、華々しい発展の陰に、むしろひっそりと佇んでいました。

「満鉄病院」の裏側から東の方にしばらく行った位置に、永安台(現在も名称変わらず)というやや台地状になった区域があり、そこに最も多くの日本人住宅が建設されていたようです。資料によると、撫順全体で、家族住宅だけでも4500戸ほどあったようで、軍ではなく、一般庶民がそんなにも多くこの地に住んでいたということに驚かされます。

于さんがいうには、今も人がまとまって暮らしているのは、「新屯」と呼ばれるもっと東に寄った地域だけだそうで、そこに向かってもらいましたが、道路を走っていても、なんとなく日本的な雰囲気が漂っていました。これらの街路樹は日本人が植えたものだそうです。2枚目の写真など、一昔前の公団住宅とほとんど雰囲気が変わらないことにお気づきかと思います。

今もほとんどの部屋に人が住んでいるようでした。老人を見かけたら話しかけてみようとしばらくブラブラしていたのですが、如何せん、寒くて誰も外には出てきませんでした。

永安台に上るこの石段も日本人が造ったもので、以来一度も修理していないそうです。界隈を巡っている道路も日本人の手によるもので、確かに、他の道路と比べて、舗装のキメがずっと細かく、タイヤのすべりも良さそうで、よほど厚い舗装がしてあるのだと思います。