除夕(チューシー)スナップ


今日が除夕、大晦日です。離石で春節を迎えるのは初めてで、中央広場あたりはさぞかし人出が、、、と思って4時頃に出かけたら、案に反して人も車も平日よりずっとずっと少なくて、閑散としたものでした。春節の用意はすでに全部済ませて、今夜は伝統に則って、夕方から「年夜飯」というごちそうを家族で囲むのでしょう。そしてテレビでやる年越しの大豪華キャスト娯楽番組をみんなで観るのだと思います。ちょうど私たちの年代が小中学生だった頃、紅白歌合戦を観るために早めに準備を済ませて、揃ってテレビの前に座り込んだのと同じように。



橋の上に設置されたモニュメント。龍と鳳です。



魚は縁起物。余裕の余、つまり満ち足りて余るという字と発音が同じだからです。


5時の段階で、すでに車も人もいないのがおわかりいただけると思います。


そんな中で、べっ甲飴売りの兄ちゃんが頑張っていました。



春節の飾り物も、これで今年の分は売り切り、かたづけを急いで我が家に帰ります。習さんが1枚売れ残っていましたが。




中央広場は遊園地になるようです。もともとの住人の上に、近隣の村々からやってきた若い夫婦が多いので、子ども人口というのはベラボウに多いのです。日本政府要人の方々から見たらよだれがでそうなくらい。明日から当分の間、ここは大賑わいになること間違いなしですね。


こんなにかわいいメリーゴーランドも。みなそれぞれ商売主がいて、遊具使用料はけっこう高いです。


もちろん老人も多いです。だいたいトランプか中国将棋でバクチやってます。かつての国営企業で働いていた人などは、十分な年金がもらえるので、左うちわです。息子たちがそれにたかる、という構造もあります。歳をとったら使い道がありませんから。



7時半、街路樹のモニュメントにも灯が入りました。

現在8時半ですが、ホテルの周りでは待ちきれない人たちが、すでにあちらこちらでバチバチ、ドンドンやってます。賀家湾にいてすら、最近は相当の量の爆竹を爆発させますが、この街ではいったいどれくらいの量になるのか?その量はある意味、豊かさの象徴でもあるのです。ちなみに、昨日の写真のバスの座席にある大きな輪になった爆竹で、2000円ほどします。もうしばらくして、0時を迎えるといっせいに爆竹と花火が点火されますが、10年間この地に暮らしてきて、私も今夜はじっくりとその音を心に刻みたいと思っています。

バスが走らない春節


10℃からさっぱり温度が上がらず、またまた離石に避寒しました。今年は特別に寒いようです。写真は、結露した水滴が即座につららになったもので、これは扉の内側です。

ビロウな話ですが、一番つらいのはトイレです。こちらのトイレは、穴掘って大きな甕を埋めるだけのものですから、当然部屋の中には造りません。庭の広い家は、庭に造ったりしますが、だいたいは門の外にあることが多いのです。ウチの場合も外にあります。ですからどの家でも、門に施錠してからは部屋の中に小さな甕を持ち込んで用を足します。私ももちろん当地の習慣に従っています。ところが小の方はそれでよくても、大となるとそうはいきません。

私はずっと胃が弱い人間なのですが、腸の方はすこぶる頑強で、こんだけアジア各地の屋台食を食いまくっているのにあたったこともなく、そもそも人生で下痢をしたことというのが、両手の指で十分に数えられるくらいなのです。その私がどういうことか2度ほど柔らかくなってしまったのですが、朝方のトイレで座り込んでいたときに、ついくらくらっときてしまい、これはヤバい、脳梗塞でも起こすんじゃないかと、あわてて(いえ、ゆっくりと)部屋に戻って1時間ほど横になっていました。それで生まれて初めてビオフェルミンという薬を飲んだのですが、よく効きますね、1包で楽になりました。ですが、こんな我慢も限界とばかりに、離石に逃れてきたわけです。

今日は14日ですが、明日が除夕(大晦日)、あさってが春節です。村から離石へ行くバスも走らなくなると思い、1週間ほど前に、何日まであるのか、バスの運転手3人に聞きました。3人とも口を揃えて、29日(農暦)までだというので、今日の10時半に村を出たのです。ところが招賢の街で待っていてもなかなかバスが来ません。招賢−離石のバスは6台ほどあって、それぞれが個人経営のバスです。それがほとんど1日2往復しているので、だいたい40分に1本くらいあるのですが、タイムテーブルというものはありません。1時間半ほど待ってようやくバスが離石から戻って来たのですが、そのバスはもう離石には行かない、仕事納めだというのです。

それは困った。もうホテルも予約してあるし、いずれにしろあの寒い部屋には戻りたくない。白タクをやっているシーピンは夜まで戻らないし、さてどうしようと考え惑っているとまた1台戻ってきました。乗客は4,5人程度で、途中で降りたとはいえ少ないなと思いました。けれどもその運転手は、離石に住んでいるのでこれから戻るというのです。やれやれ、なんとかなりました。


しかしその彼が、自分の春節の買い物に忙しくて、なかなか戻ってこないのです。どうやら爆竹なんかを買ってるみたいです。もう腹くくって待つほかないので、ただ黙って寒いバスの中で待ちました。ところが、乗客は他にも5人ほどいたのですが、その中のひとりのじいさんが、あろうことかこの写真の席でぷかぷかタバコを吸い出したのです。信じがたい無頓着さですが、このすぐ後ろに私は座っていたので、危険だから止めてくれといいました。中国では火薬爆発の事故がものすごく多いのですが、こんなところで巻き添えになりたくありませんからね。

その後にも、運転手がルート外の自分の実家に寄ったりして、けっきょくウチから離石のホテルまで、たかだか40数キロの距離を移動するのに6時間ほどかかりました。私はまた、今日が最後の稼ぎ時で、バスは休む間もないピストンで走っていると思っていたのです。それが大きな間違いであったというのが、そもそもタイトルの由来なのですが、長い長い前置きですみません。

私が乗ったバスが離石に行く間に、5台ほど招賢に向かうバスとすれ違いました。それが、ほとんどのバスが半分も席が埋まってない状態だったのです。つい最近まで、春節前のバスは土産を抱えて村に帰る人たちで満席が当たり前、(積載人数に厳しくなかった)もっと前までは、車両一杯限界まで詰め込み、帰郷する人たちの楽し気な熱気で、身動きもままならず、バスの中そのものがすでにして“春節”でした。それが今はガラガラで、個人経営の運転手が早々と仕事納めをしたがるのも無理はありません。

春節間際にバスに乗ったのは5年ぶりくらいだと思いますが、この激変ぶりに改めて中国の市民・農民生活の“発展”と“底上げ”を思い知らされました。町に出た村人たちの多くが、自分の車を持つようになったのです。賀家湾村でも、正確な数こそわかりませんが、だいたい半分くらいの家で、息子たちの誰かが車を持っている感じです。村一番の金持ちの家では、3人の息子がそれぞれマイカーを所有しています。トヨタとベンツとアウディです。

そしてもうひとつ、バスが走らなくなった理由は、そもそも子どもたちが帰郷しなくなったのです。以前ならとにかく、何が何でも春節には故郷に帰る。最後尾もままならない長い長い列に並んで、プラチナチケットを入手し、都会で稼いだ現金を後生大事に懐に抱きかかえて故郷の親のところに帰る。というのが、中国の“貧しい”農村部の輝かしくも切ない伝統でした。私が当地に暮らし始めた頃もそうでした。物売りのオート三輪以外、村で自家用車など1台も見たことはありませんでした。それがこの数年、しかも短い数年の間に激変したのです。子どもたちは、便利で豊かな都会の方で春節を迎えるようになり、親たちの方が(元気なうちは)、都会に出向くようになったのです。

たしかに、村はとても静かなのです。学齢前の子どもたちの声がときどき聞こえますが、若者たちが帰って来た気配はまったくありません。ただ、賀家湾村の場合、初五(春節から5日目)から唱劇が始まるので、それに合わせて村に帰ることが多く、もともと春節は割合に静かでしたが、それにしてもひっそりし過ぎです。それで他の村の様子を見てみようと、昨日、かつて1年ほど暮らしたことがある樊家山村に行ってきました。


村の入り口で紅い提灯を吊るしている人たちを見かけましたが、やっぱり村はひっそりとしていました。南京錠がかかっている門が多く、そもそも人が暮らしている気配があまりありません。


ここで暮らしていた老夫婦はおそらくすでに亡くなっているのでしょう、片方の部屋が崩れたままになっていました。顔見知りには3人出会いましたが、私が暮らしていた当時の仲良しのじいちゃんばあちゃんたちは、みな亡くなったようでした。もうあれから10年経っていますから、それも当然のことでしょうね、思えばほんとうに長くいたものです。この村は本来の人口が800人ほど、現住人口は100人ちょっとだそうです。




これらは一昨日賀家湾で撮ったもの。羊たちは元気そうでした。全身ウールですからね。

迎春準備

ようやくにして部屋に戻った時、室温は8℃でした。氷点下20℃が続いていたはずなのに、室温が8℃もあるというのは、さすがにヤオトンです。壁も床も天井もすべて土でできているわけですから、外気温の影響を受けづらいのです。しかししかし、この土でできているということは、室温を上げるのもたいへんに難しいということで、帰って以来10日間ほど、毎日寝ている間以外は電気ストーブをつけっぱなしにしているのですが、ようやくにして10℃になりました。10℃の中で日常的な生活を送るというのは、みなさんにはおそらく想像できないでしょうね、死にそうに寒いです。

もちろん、村人は秋口から部屋の中のカマドで煮炊きをするので、何か月もかけて部屋を暖めているわけで、ほっこりじんわりと暖かく、とても快適です。そもそも、基本的には誰かが火の番をしていて、部屋を空けることはないのです。


それで暖を取りに離石に来ているのですが、街はもうすっかり“正月気分”です。今年の春節は16日ですが、学校が休みに入っているので、どこに行っても賑やかで、迎春準備に追われています。


日本では風船売りというのを見かけなくなりましたが、何か理由があるのでしょうか?こちらではよく見かけます。どらえもんにキティちゃんにクレヨンしんちゃんウルトラマンにディズニーキャラクター、、、どれでも一個5元です。


子どもをダシにした物乞いは止めてほしいですが、離石ではしょっちゅういます。前の紙にだいたいは、妻が病気で自分は工場が閉鎖になり、子どもに食べさせるものも買えないので、ご支援を、と決まり文句が書いてあるのですが、お金入れる人ってけっこういるのです。まぁ大道芸みたいなもんでしょうね、でも幼い子供の将来を考えるとね、止めてほしい。


“滑雪場”文字通りスキー場の宣伝です。離石では初めて見ました。


新年には紅い下着を付ける習慣があるのです。老若男女すべて。


焼き芋売り。街中桃の花が咲きまくっています。もちろん造花ですよ。


ここには以前、石州賓館という、5,6階建てのボロいホテルがあって、離石に来たての頃には何回か泊まったことがありますが、こんなに立派なビルに変わっていました。当然、アッという間にです。前を走っている緑色の市内バスも、最近すべて新しいものに入れ替わりました。すべて電気自動車です。



1階にはケンタッキーとスーパーマーケットが入るようで、春節に間に合うように最後の追い込みに忙しそうでした。


街を流れる川、寒そうですね。

文水ちょいブラ

文水がずっと気になっていたのには、もうひとつ理由がありました。ここにひとりの日本人残留婦人が暮らしている(いた)という話を、もう10年近くも前から聞いていたのです。いわゆる残留孤児ではなく、敗戦時にすでに成人か、それに近い年齢(といっても実際には10数歳くらい?)で、中国人と結婚して中国で生活することを選んだ(選ばされた)女性のことを残留婦人といっているようです。私が取材活動を始めてじきにそのことは耳に入って来て、ひとりは臨県の三交、もうひとりが文水に住んでいるということでした。

三交の方は、息子さんにも何度か会いましたが、彼女は40代でガンで亡くなっていました。私はお墓に行ったこともあるし、息子さんの依頼で、北陸の温泉町まで親族を探しに行ったこともありました。三交では有名な人だったようですが、連れ合いが教師だったということもあり、周りの人からも愛されていたようです。写真を見ても、とても美しい人でした。ただ、日本語を話すことはいっさいなく、死の間際になってはじめて自分の故郷の住所を書いた紙を子どもたちに見せたそうです。

文水の方も、もしまだ生きていたとしても、おそらく90歳以上でしょうが、私は彼女の信息を探すという意図はもうまったくありませんでした。それでも、ホテルの経営陣のひとりらしきやや年配の女性に、そういう噂を聞いたことはないか?と訊ねてみましたが、予期したように、不愛想な答えが返ってきました。現人口が43万弱の、小さな町ですが、恐らくはご当人もあまり外には出さずに暮らしていたのではないかと思います。



そんなことも思い浮かべながら、近くをブラついてみました。山西界隈のどこにでもある地方都市の様相で、表通りはとても賑わっていました。目にする屋台や雑貨屋、餅屋、駄菓子屋、肉屋、八百屋等々、離石あたりと変わるモノはありません。ここから離石までは、列車で1時間ほどです。裏道に入ると相当に古そうな建物も残っていましたが、もともとが裕福な町ではなかったのでしょう、すでに崩壊して建て替えられた家屋がほとんどでした。その“残留婦人”も、この道を行き来したことはきっとあったはずです。商店のある中心部は、すべて歩いて廻れるほどの小さな町でした。


「犬買います」と書いてあります。犬の肝が滋養強精剤として取引されるのです。もう私は、こういうの見るだけでダメです。


中学校は立派でした。正面に立つのは孔子像です。


校門の横に、試験の成績が顔写真付きで発表されていました。中国ではどこに行ってもそうです。この激烈で、あからさまな競争社会を勝ち抜いて、いい学校に進学し、いい会社に就職し、いい給料をもらってお金を貯めることは、極々一般的な人生の最大目標です。


近くの路上で縛られていたネコちゃん。でも、氷点下ですよ。置いてあった水もエサも全部凍り付いていてかわいそうでした。ネットで見ていると、日本はいま犬よりネコの方が人気があるようですね。みんな暖かそうな部屋でとても大切に飼われていて、当地の犬猫とは雲泥の差がありますが、当地は当地で、自由気ままに、時に人間の謀略とも闘いながら、みんな頑張って生きているようです。

武則天の故郷

北京から呂梁に戻る途中、文水という町に寄りました。太原と呂梁の中間、呂梁寄りに位置する町です。これまでに何度も何度も通った町なのに一度も降りたことはありませんが、今回時間があったので寄ってみることにしました。駅のホームの看板に、「武則天の故郷」と書いてあるのが、前々から気になっていたからです。

そもそも山西省というのは、人心穏やかな地とはいい難く、そうでなくともスーツケース抱えて、初めての町に日が暮れてから到着するというのは、いくら旅慣れた私とはいえ不安なものです。まずひとりでTAXIに乗るというのが最初の関門で、どこに連れていかれるかわからない。私のように歳をとって、一見お金がありそうに見える、女性というのはカモである。などと憂鬱な気分で駅舎を出ると、乗客たちがみないっせいに同じ方向に歩いてゆきます。どうやら路線バスが走っているようです。新しい駅で中心部から離れているのできっとバスはないだろうと思っていたのですが、どうやら列車の到着時間に合わせて走っているようです。ああ、よかった。

標準語がしゃべれる運転手の兄ちゃんと話していたら(ちなみに、乗客同士の会話はまったく聞き取れない)、彼の親戚で日本に行っている人がいるとかで、まずは歓迎されました。実をいうとこの界隈は、熾烈な抗日闘争が闘われたことで有名な地域で、反日感情も強いといわれています。太原から近く、また石炭があった大同と結ぶ鉄道網に近接しているところで、“三光作戦”が展開された地域です。劉胡蘭という、抗日英雄として全国的に有名な女性の生まれ故郷でもあります。

ところで、今回はしっかり時間をとったせいで、高度順化ならぬ寒度順化が無事に完了したようで、身体の方も正常な状態です。しかし、今年は中国もものすごく寒くて、特に普段は雪の降らない南の地域で大雪が降り、道路状況がめちゃめちゃになっているようです。北京も文水も寒いのですが、大雪が降った形跡はありませんでした。


さて翌日「武則天紀念館」に行ってみました。ところがまあここが、25元も入場料を取るのに、な〜〜〜んにもないからっぽな紀念館で、金返せ!といいたいくらいお粗末な施設だったのです。そもそも墓(陝西省の乾陵)があるわけでもないし、生まれ育った家があるわけでもなく、単に、父親の武氏の故郷だったわけで、武則天が生まれ育ったのは、長安、つまり今の西安だったようです。せめてきちんとした資料なりパネルなり展示してくれればいいのに、そういったものもほとんどなく、ゆかりのある他所の観光写真と、マネキン人形並べて、武則天が親の葬儀に来たときを再現しているとか、、、まったく詐欺同然でした。


“中国三大悪女”のひとりに数えられているそうですが、確かに、67歳で即位して、82歳まで生きた中国史上唯一の女帝というのですから、ものすごい烈女であったことは間違いなく、その片鱗でもしのぶことができるのかしらと期待していただけに、残念でした。ちなみに最初から最後まで、客は私ひとりでした。

撮り鉄さんいらっしゃい!

泊まっていたホテルのある天壇から北京駅までは、ブラブラ歩いて1時間くらいとふんで、徒歩で出かけました(帰りも歩きました)。位置関係ははっきりしているので、ジグザグで駅の方角に向かったのですが、裏側から攻める形になるので、線路がうまく越えられるだろうかと、最初から気にはなっていました。


案の定、近くまで来ると、目の前に高い城壁が立ちはだかっていたのです。公園として整備されているようで、説明板には、明代の城壁と書かれていました。急いでいるわけでもなし、せっかくだからちょっと登ってみることにしました。10元の入場料が必要でしたが、よく見ると、65歳以上の老人は半額だと書いてあったので、こういうときはさっそくパスポートを取り出して、外国人でもOKかと聞くと、分厚い綿入れの軍用コートに身を包んだ若い係員は、チラと目を通すなり、タダでいいよといってくれたのです。こんな閑散期の身も凍る日に、はるばる異国からやって来た訪問者に、敬意を表してくれたのか、はたまた憐憫の情をもよおしたのかは、彼の表情からはわかりませんでしたが、とにかく謝謝とお礼をいって階段を上りました。城壁の上部は、幅50m近くの広さがあり、建造物がぽつぽつ建っていましたが、やっぱり人っ子ひとり見当たりませんでした。



ここは北京城の東南の角にあたっていたようで、隅櫓が建っていました。そしてそのすぐ手前に説明板が立っていて、2枚目の写真のこの断面は、もともとここから城壁が北側に延びていたものを、北京駅を造る時に切断したものだそうです。唖然としました。

中国(人)というのは、どうしてこんなに大切な遺跡とか歴史の証明となるモノを、近場の利益のために簡単に破壊するのでしょう?そういったものを保存しようという気持ちが、なきに等しいです。あるとすれば、それは政治的に使えるか、あるいは観光で金になるからに過ぎず、観光資源のためなら、あっという間に見事なレプリカを作り上げ、補修のためにペンキやセメントをゴテゴテと塗りたくるのに躍起になり、あげくは、唐代建築の研究をするために、“平気で”はるばる日本まで出かけるのです。




と、他人事ながら憤懣やるかたない気分になっていたところ、目の前をガタゴト列車が通り過ぎました。そうそうここは北京駅の裏側だとあらためて思いなおし、城壁から身を乗り出して見ていると、日本のように頻繁にではありませんが、上り列車下り列車が通り過ぎてゆきます。





ここなら“撮り鉄”さんが狂喜しそうな場所ではありませんか!線路を挟んで、上方に近代建築の高層ビルが立ち並び、下方には明代らしき古建築(新築の土産物屋など)が軒を連ねる。入場料は10元(160円)、学生と年寄りは半額。もちろん撮り鉄さんでなくとも十分に楽しめます。ただしいうまでもありませんが、今の季節はおすすめしません。ちなみに、城壁を下りて、東側に回り込むと、高架になったところのすぐ前に出て、位置は低くなりますがもっと近い距離で撮影できます。

北京站にて


ネットで購入したチケットを受け取るために北京駅に行きました。当日でもいいのですが、場合によっては長時間並ばなければならないからです。身分証がある人は、機械から受け取ることができるのですが、旅券は認識しないので窓口まで行かなければなりません。北京駅もかなりの人出でしたが、それでも以前のように、どこが最後尾かさっぱりわからないような混雑ぶりはなくなり、じきにチケットを受け取りました。すでに何度か書きましたが、列車のチケットには、1枚1枚身分証(旅券)番号と名前が記入されています。

私が北京にいた頃は、“ダフ屋”がいて、長距離の人気チケットなどはかなり高く、しかも売り場で並んでいる人の横で堂々と取引されていました。ダフ屋でなくても、払い戻しがしたい人は、額面で売れるために、「〇日の上海、いらないか?」と並んでいる人に声をかけます。私もそこから買ったことがあるし、売ったこともあります。当然偽造のチケットも横行していたようです。幸いなことにそういうことはなくなりましたが、誰がいつどこからどこまでのチケットを購入し、そしてそれに乗ったかどうか(当日駅の構内に入るときにチケットがチェックされる)は、すべてコンピューターで管理されているわけです。(マイナンバー制度が確立されれば、いずれ日本も後を追うでしょう)

北京駅も久しぶりでしたが、駅前ロータリーのぐるりには、ずらりと“煌びやか”なスローガンが踊っていました。以前はこういうところに白タクの運ちゃんがたむろしていましたが。。。







「林」の下に「夕」と書いてある字が、「夢」の簡体字です。



以前はスーツケースではなく、みな穀物や飼料が入っていた大きなビニール袋をぱんぱんにして担いでいましたが、今はほとんど見かけなくなりました。服装も、都会人とそれほど変わりません。そもそも出稼ぎ農民の姿は、東海岸部では減ったはずです。中国中央部に位置するウチの村人の話からしても、今や東部へではなく、西部や北部に仕事を求めて出かけているようです。



帰り道で見たレンタル自転車。スマホQRコードを読み取って使います。30分1元で、どこにでも乗り捨てです。


これは天壇公園の入場券売り場。中国では今や屋台のアイスクリーム屋でもQRコードを貼りつけています。ただし、支払いは支付宝とか微信などの中国サイトへの登録が必要ですから外国人には不便で、この支払方法を使えないと、例えばホテル代も割高になったりします。